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[書評]『「世界のクロサワ」をプロデュース~』

鈴木義昭 著

東海亮樹 共同通信記者

日本映画史の欠けたピースを埋めた力作  

 『七人の侍』『羅生門』『生きる』。言わずと知れた黒澤明監督の名作だ。こちらはどうだろう。『セックスNo.1』『発情女 乱れ斬り』『人妻悶絶』……。

 これらの映画は一人の人物でつながっている。黒澤の「番頭」とも呼ばれたプロデューサーの本木荘二郎。金銭トラブルによって東宝を追われた後、本木はさまざまな変名でピンク映画を撮り続けた。

 本書は、映画史研究家の著者が、日本映画史のタブーとみなされ、「奇譚」とさえなっていたという本木の生涯を資料や証言から描き出した評伝だ。

『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』(鈴木義昭 著 山川出版社) 定価:本体1800円+税『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木荘二郎』(鈴木義昭 著 山川出版社) 定価:本体1800円+税
 高名なプロデューサーの転落劇だろうと興味本位で読み始めたが 本木という人物が戦後の日本映画においていかに重要な役割を果たしたかを知り、驚いた。

 本木は1914(大正3)年に東京・新橋の洋装問屋に生まれた。早稲田大卒業後の38年にNHKにアナウンサーとして入社するが、すぐに大学の先輩の山本薩夫に誘われ、映画会社のPCL撮影所に入る。PCLで黒澤明は2年先輩で、ともに山本嘉次郎監督の門下生として学ぶ。

 戦前のトーキー映画の先駆だったPCLは時代の先端を走る会社だった。後に東宝の幹部となる森岩雄のもとで近代的な映画製作が進められ、山本嘉次郎がエノケンこと榎本健一のコメディ映画でヒットを飛ばすなど、戦争前のモダンな大衆文化を生み出した。

 森は44年、本木に助監督からプロデューサーへの転身を命じる。森はハリウッド的なプロデューサー主導の新しい製作システムを目指していた。新橋生まれで銀座育ちの本木のモダンボーイぶりが森の求める人材像に合致したようだ。いわば本木は新時代のプロデューサーの第1号という人物だった。

 プロデュース第1回作品には、親友となっていた黒澤がエノケン映画の脚本をお祝いに書いてくれたという。しかし戦争の敗色が色濃くなる中、本木に召集令状が届き、企画していた黒澤との映画製作は戦後に持ち越されることとなった。

 戦後、日本映画の復興は思いのほか早かった。世田谷にあった東宝撮影所は幸いにも無傷だった。本木は45年12月にさっそく石田一松やエンタツ・アチャコら出演の『東京五人男』をプロデュースする。戦争中に徴用工だった男たちが焼け跡になった東京で奮闘する「下からのデモクラシー」を描いた喜劇で、戦後民主主義の出発を告げるような映画だった。

 47年の『素晴らしき日曜日』に始まり、『酔いどれ天使』『野良犬』など黒澤映画の初期の傑作を立て続けにプロデュースする。監督と脚本家が熱くなって対立すると冷静に収める調整役の手腕を見せ、黒澤を支えた。

 東宝でプロデューサーとして順調な再始動をしたが、48年に東宝争議が勃発。ストライキが続く一方、社幹部が強権的になる混乱のなかで映画製作がストップし、黒澤や成瀬巳喜男、谷口千吉ら東宝の監督たちは「映画芸術協会」を設立する。代表には師匠の山本嘉次郎と本木が務めた。これは独立プロダクションの走りであり、1社に所属せず作品ごとに映画会社と契約するという戦後の新しい動きの中心にも、本木はいた。

 『羅生門』は大映京都撮影所で撮影され、ベネチア映画祭でグランプリを獲得する。よく知られた話だが、映画祭への出品はイタリアの映画人が行い、黒澤も本木もノミネートされたことを知らず、受賞は外電で初めて分かったそうだ。『羅生門』の企画段階では、大映側は複雑な構成の脚本に難色を示したそうだが、本木は幹部らの前で、あの有名な冒頭のナレーション「半分壊れかけた巨大な羅生門が……」を朗々と読み上げ、説得したという。

 『羅生門』のベネチア受賞によって、それまで海外の映画祭に興味がなかった日本の映画会社が積極的に出品を始めるようになる。日本映画が世界に認められるようになる画期的な出来事にも本木が関わっていた。

 黒澤とともに『白痴』『生きる』を作りながら、重鎮マキノ雅弘監督『次郎長三国志』や後に初代ゴジラを撮る本多猪四郎監督らの作品をプロデュースし、本木は凄腕プロデューサーの名声を得ていく。

 そして『七人の侍』。黒澤は橋本忍の当初の脚本が気に入らなかった。黒澤は侍の普通の日常を描くというアイデアを持っていたが、脚本がうまくいかない。次に武者修行というテーマが浮かんだ。本木は部下に図書館で調べさせ、「当時は盗賊や山賊が多く、侍が村で野盗の番をすれば飯が食えた」という話をすると、黒澤は「できたな」「七人ぐらいだな」と答えた。『七人の侍』は、本木が助産師となって誕生したとも言える。

 製作費が膨れ上がり、撮影日数が延び続け、独裁者ぶりを強めていく黒澤を本木は支え続けた。しかし、57年の『蜘蛛巣城』が公開された頃、本木は忽然と撮影所から姿を消した。まさに煙のようにいなくなった。周囲の人間も「金らしいよ」という噂ぐらいで真相は分からなかった。本木は女優だった夫人と暮らしていた豪邸からリヤカー1台で家を出たそうだ。

 それから5年たった62年に高木丈夫という無名の監督『肉体自由貿易』というピンク映画が公開される。この年、映倫(映画倫理審査委員会)が成人指定した独立プロのピンク映画が初めて公開される。新東宝が経営に行き詰まって倒産し、映画館で上映するフィルムが足りなくなり、その間隙を縫ってピンク映画が登場したという背景があったそうだ。そしてこの高木丈夫が本木だったのだ。

 本木はさまざまな変名を使い、それから15年間に約200本のピンク映画を撮ったという。メジャー映画会社から金銭トラブルで追われ、糊口をしのぐためにピンク映画を撮るという転落物語を想像するが、たしかにそういう面もあったにせよ、評伝の著者の掘り起こした実像は少し異なる。

 初期のピンク映画はポルノメディアが制限されていた時代に絶大な人気を得て、映画館は扉が閉まらないほどの大入りだった。本木は、撮影所仕込みの手堅い手法で、良質とも言える商業娯楽映画を作っていたという。戦後映画の出発を担ったプロデューサーは、ピンク映画の黎明期にも当事者として立ち会っていたのだ。

 しかし、独立プロのピンク映画は70年代に入ってから急速に斜陽化する。映画界全体の低迷に加え、日活がロマンポルノに乗り出し、『エマニュエル夫人』など外国ポルノ映画に客を奪われていく。製作費が少ない上、もともと金遣いの荒かった本木の生活は落ちぶれていき、現場では東宝の大プロデューサーだったことも知らない若い俳優やスタッフとともに働き、77年に本木は新宿の木造アパートでひっそりと孤独死する。

 本書は、黒澤という鬼のごとき天才を支えたプロデューサーの足跡をたどることで日本映画史のパズルの欠けたピースを埋めた。そして本木のピンク時代の生き様を、関係者のオーラル・ヒストリーによって浮かび上がらせたことも日本映画を考える上で興味深い。

 周防正行や井筒和幸、滝田洋二郎など現代日本映画のベテランたちがピンク映画出身だということはよく知られている。単に登竜門としてピンク映画があったということではなく、その原点の世界に『東京五人男』から『七人の侍』までをプロデュースした本木という人物が存在したという事実は、日本映画史に隠されていたひとつの系譜を明らかにしている。

 大変な力作。映画ファンのみならず、金と欲望、ビジネスと芸術が絡み合った人間劇としても読み応えがある。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

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