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[書評]『死を迎える心構え』

加藤尚武 著

中嶋 廣 編集者

生命倫理学者のユニークな老後  

 加藤尚武は生命倫理学の方面で、患者の自己決定を尊重するという論陣を張り、森岡正博などとともにオピニオンリーダーとして活躍したことがある。しかし今度の本では、それが180度、違うことを言っている。必要なのは、自己決定権ではなく、「見繕いで、当人にとっての最善を追求するというスタイルを確立」することであるという。

『死を迎える心構え』(加藤尚武 著 PHP研究所) 定価:本体1600円+税『死を迎える心構え』(加藤尚武 著 PHP研究所) 定価:本体1600円+税
 なぜそんなことが起こるのか。それは四半世紀前と今とでは、平均寿命が全く違っているから。

 かつては60代で寿命を終えていたものが、今では「九十歳を過ぎて認知症の進んだ人をどうしたら周りの人が面倒を見るかということが大事になる。当人が口先でどう言うかは、必ずしも判断のよりどころにならない」。

 こういうことを前提に、死について書かれたことを細大漏らさず書きとめておきたい、つまり「文理融合、東西融合、古今融合という三融合」の書物を書こうというわけだ。

 まず「文理融合」とは、生物学・生理学の最先端と、哲学・法律・宗教の知恵を比較する。「東西融合」は、これはギリシャに始まる西洋と、インド、中国、日本の伝統思想とを比較する。最後の「古今融合」は、太古の昔、人間が洞窟に絵を描き、墳墓を残した思いから、近代科学の登場まで。

 「すなわち生物学、医学、法律学、哲学、文学、芸術、宗教などの古今東西の知見を集めて、死について、確実に語りうることを、今の時点で集約しておきたい」

 いま現在、死について語りうることを語っておきたいというのは、企画として抜群である。しかも著者が加藤尚武というのは、実にバランスが取れていていい。

 以下、具体的に本文の見出しを拾っていくと、「死なない生物と死ぬ生物」「ほんとうに私は一人しかいないか」「現代哲学としての仏教――どうしたら本当に死ねるか」「鬼神論と現代」「霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで」「私をだましてください」「他人の死と自分の死」「人生は長すぎるか、短すぎるか」「世俗的来世の展望」「どこから死が始まるか」「人生の終わりの日々」「胃瘻についての決断」「往生伝と妙好人伝」「宗教と芸術」「人生の意味のまとめ」。

 いずれの目次も魅力に富む。このあたりは著者(あるいは編集者)が、乗りに乗って付けていることがわかる。ただし、目次は非常に魅力的だが、場合によってはどこかで聞いた話だというのもある。これは死に関することを網羅する以上、仕方のないことだ。

 このうち「人生の終わりの日々」は、異色である。これは、徹底して自分のことを述べている。だから、人生の最終盤を迎えて、なるほどというところと、ウーンと首を捻らざるを得ない箇所とが、入り混じっている。読んでいて、それが実に面白い。

 例えばこんなところ。

 「若者をだます張り合いで生きている。だまされたフリをするのもうまい」

 加藤先生の知られざる一面、いやあ、びっくりしたなあ。

 「そつなく挨拶を欠かさないようにする。挨拶とは他人との扉を開くことだということがよくわかっているそぶりをして、挨拶さえしていれば他人はだまされる。私が私を介護する人々に協力的だと思わせることができる。好々爺ぶって芝居をする」

 先生、何となく「意地悪ばあさん」かと思わせる。

 「健康のためにもっと歩いてください。はいはい。
 爽快のためにもっと野菜を食べてください。はいはい。
 他人のために大きな声は出さないでください。はいはい。
 他人に迷惑をかけないように、できることは自分でしてください。はいはい」

 口先で調子いい返事をしといて上の空。これはかなりユニークな最晩年だと思うよ。

 「こういう態度を『おとぼけ物語の時代』と名付けてもいい」

 なんと名付けてもいいけれど、加藤先生以外には、こんなおとぼけを通すことは無理ですよ。

 この章はまた、最晩年に必ず話題になる自殺についても触れる。

 これはもう、自殺などというのは、元気なときの強がりで、実際にそうなれば、ただただ生きていく以外の選択はできないだろうから、そうなれば、ただ生きていくという覚悟を決めなくてはいけない。実際、自力で排泄できない人が、梁にロープをかけるのは無理である。

 うーん、覚悟を決めるか。でもそこまで行ったら、覚悟も何もなく、ただだらだらと生きているだけのような気もする。

 そこから派生する問題として、身内の自殺についてだが、これはちょっとユニークだ。

 「もしも、私の息子が自殺したら私は以前の私ではなくなってしまう。息子には自殺する権利がない。父の同一性に傷をつける権利がないからである。『他人の死=自分の死』というのは、論理的には矛盾を含んでいるように見えるが、暗黙の内に私たちは『他人の死=自分の死』という関係のなかにいる」

 これは面白い見方だ。父(または母)がこう言いたくなるのは当たり前だが、でもこれはちょっと無理だろう。そもそも自殺する人は、追い詰められていて、そこまで論理的に考えることはできない。それに「他人の死=自分の死」とはいうものの、この「他人の死」は、いわゆる「第二人称の死」であることにも、注意した方がいい。

 もちろん加藤先生が、自分の息子にそう言いたくなる気持ちは、僕も子供の親として非常によくわかるが。しかしそういうわけで、「一般に法律では『他者=自己』という関係を認めていない」。これは当たり前のことである。

 加藤先生は、死を迎えるにあたって、古今東西すべての知見を書き残したいと考えた。その出来については鮮やかなものだが、ここには一つ抜けていることがある。それは、ひょっとすると「書かれたもの」からでは、具体的なことは、どうにも分からないんじゃないか、ということだ。

 たとえばこれは養老孟司先生が出された例だが、臨死体験はいわば夢から覚めて、それを追体験して書く。この場合、夢から覚めているので、整合性の取れた論述になっている。しかし本当にそうかと問われたら、じつは怪しい。

 このような例は特殊に見えるかもしれないが、何が言いたいかといえば、いまわの際にすべてが書き残せるものだろうか、もっといえば、書き残すことのできたその向こうに、まだ見ぬ真相が現れてはこないだろうか、ということである。

 加藤先生のように、死をめぐるすべてのことを、古今東西にわたって書きとめることは、もちろん大事だ。しかしその裏に、ひょっとすると広大な未知の分野が広がっていることも、忘れないほうがいいと思う。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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