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[11]「性的解放」と「禁制」考 『晩春』4

続・引き裂かれた原節子の内面

末延芳晴 評論家

不可思議なコカ・コーラの宣伝用立看板

 原節子が宇佐美淳と並んで湘南の海岸道路をサイクリングするシーンには、もう一つ不可思議な異物とでも言うべき「記号」が描き込まれている。速度制限標識と道路交通標識が映ったあと、自転車の進行方向右手前のアングルから、原と宇佐美が画面左手の奥から小さく自転車を漕いでくるなか、画面右手に大きく映し出されるコカ・コーラの宣伝用の看板である。

【写真2】 拡大【写真1】 こんなところに何故と思わせる不可思議なコカ・コーラの宣伝板=写真は、『晩春』のDVDより筆者作成
 それは、写真1に見るように、ひし形の板を棒杭の頭に取り付けたもので、上から「DRINK」、「Coca-Cola」と書かれ、その下にコカ・コーラの瓶が描かれている。

 それにしても、周囲には道路と砂浜と遠くに連なる低い山並みと光きらめく海しか見えない殺風景な広がりのなかに、進駐軍の米兵向けと思われる清涼飲料の広告がなぜ?と思わせて、いかにも不可思議である。

 さらにまた、正方形のひし形の木枠に、コカ・コーラのロゴと瓶を描いただけというデザインも異様である。

 このような広告板が、占領下の日本の道路の脇に立っていたのだろうか。

 それともう一つ不思議なのは、広告板が、道路に平行する形でなく、道路標識と同じように、自動車や自転車を運転する人と対面する形で建てられていることである。

 確かに、仁丹や正露丸の広告のように、家屋やビルの壁、あるいは電柱に、対面する形で宣伝板(多くはブリキ製)が張られている明治・大正期の写真や絵葉書は少なくない。しかし、写真1のように、専用の棒杭を建て、その上に正方形の板を対面形に、それもひし形に取りつけた広告板は見たことがない。

 果たして、この奇妙な形の宣伝用の看板は、『晩春』の撮影がここで行われる以前から建っていたものなのか。それとも、監督小津安二郎の発案で、作られ、建てられたものなのか。

 その疑問を解くために、コカ・コーラの広告板の歴史について、いろいろ調べてみたら、ネットの上のブログ「世界一周をだらだらと…」に、「これだ!」という画像が見つかったのだ。

 これは、二人乗りのスクーターで世界一周旅行を続けている石沢義裕+祐子夫妻が、旅の生活とその途中で出会った現地の人々や風景、事件、事物を写真入りで紹介した、素敵に楽しいブログで、そのなかの「B級写真」に、『晩春』に出てくるコカ・コーラの広告板とまったく同じデザインの、コカ・コーラのブリキ製の広告看板がアップされていたのである。

カルフォルニア州のニードルズからアリゾナ州セリグマンまで拡大【写真2】 カルフォルニア州のニードルズからアリゾナ州セリグマンまで、伝説のルート66を走る途中で撮影されたコーラの看板
 写真2を見てもらえればお分かりのように、ブリキ製の四角い板に白く縁取りを付け、その中を真っ赤に塗って、上に黄色く「DRINK」と書き、その下に大きく白抜きで「Coca-Cola」と書かれ、一番下に淡い黄色の円形の中にコーラの瓶が立つというデザインで、白く塗られたペンキが剥げ落ち、錆びが出ているブリキの壁に貼り付けられている。

 2005年5月4日、カルフォルニア州ニードルズからアリゾナ州セリグマンまで、夫妻が二人乗りのスクーターで伝説の「マザー・ロード」ルート66を走る途中、どこかの町に立ち寄り撮影されたものらしく、赤と黄色が真夏の海辺の狂騒をイメージさせる一方、真っ白なコカ・コーラの文字が、冷えたコーラを飲んだときの清涼感を感じさせ、しかも、長年雨や風にさらされたせいで、ペンキが剥げ落ちて錆びが出ている。

 その風合いが、これも白塗りのペンキが剥げ落ち、赤茶けた色で錆びの出た、背景のブリキの壁板と絶妙にマッチして、何とも、ノスタルジックで、恰好いいのだ。

 ところで、広告板の画像の下に、コーラのアジア進出の歴史について、以下のようなコメントが書かれていたので、コーラの日本への進出の歴史を調べて見た。

 ペプシコーラは、ニクソン元副大統領、フルシチョフ書記長を経由してソ連と契約した、一番最初のアメリカ製品です。
 一方コカコーラは、中華人民共和国へ最初に進出したアメリカ企業で、「コカコーラ〇〇学校」として学校への寄付が多すぎたため、田舎の人々は「コカコーラ」を英語で“学校”の意味だと勘違いしているそうです。
 インドへの進出は、政府から製法の公開を求められ断念。また製法を隠すため、特許もとっていません。
 それほど製法は極秘です。(ブログ「世界一周をだらだらと…」

 日本におけるコカ・コーラの進出の歴史を簡単に振り返ってみると、日本で最初にコカ・コーラが販売されたのは、1920(大正9)年9月からのことで、明治屋と満平薬局が一般販売を行ったという。ただ、その当時、日本にコカ・コーラの製造工場はなかったため、もっぱらアメリカから輸入したものが販売された。

 そのため、コカ・コーラはホテルや高級レストラン、キャバレーやダンスホールなどの客が飲むだけで、一般庶民には縁のない飲み物であり、当然のこととして街頭宣伝などはほとんど行われなかった。

 情況が変わったのは、1945(昭和20)年8月15日、日本がポツダム宣言を受け入れ、敗戦の決まった年に、横浜にコカ・コーラ・エキスポート・コーポレーションの日本支社が開設され、日本国内6か所にボトリング工場を設立し、進駐軍向けにコカ・コーラを提供するようになってからで、米軍横須賀基地司令部が置かれた横須賀を起点とする湘南海岸道路の脇に、車に乗って通行する米兵向けに、写真6のような広告板(連載[10])が建てられていた可能性はある。さらにまた、夏に海水浴で訪れる日本人を対象に、コカ・コーラを売ろうという目的で、宣伝板が建てられていた可能性も否定できない。

 ただそれにしても、周囲に何もない環境に、大衆的な清涼飲料の広告板がポツンと建てられているのも、不自然と言えば不自然である。小津監督は、なぜこのシーンで、このような不自然で、ぎこちない広告板を、ことさらに大きくスクリーンに映し出したのだろうか。 ・・・ログインして読む
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筆者

末延芳晴

末延芳晴(すえのぶ・よしはる) 評論家

1942年生まれ。東京大学文学部中国文学科卒業、同大学院修士課程中退。1973年から1998年までニューヨークに在住。2012年、『正岡子規、従軍す』で第24回和辻哲郎文化賞受賞。『原節子、号泣す』(集英社新書)、『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(平凡社)、『夏目金之助ロンドンに狂せり』(青土社)など著書多数。ブログ:「子規 折々の草花写真帖」