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はじめに――2020年代に蘇るものはなにか?

 安倍晋三首相は2016年9月28日の衆院本会議で、2025年の万国博覧会の大阪誘致に向け、立候補する意向を示した。大阪府が2014年から検討を進めており、日本維新の会代表の松井一郎知事がこの間、政府に繰り返し協力を求めていたと言われる。

 すでに8月29日、大阪府は「2025年日本万国博覧会基本構想(素案)」を発表している。テーマ案は「人類の健康・長寿への挑戦」(Our Health, Our Future)。会場は臨海地区の「夢洲」を予定し、会場建設費と運営費に約2400億円を投じ(関連事業費は別途)、3000万人以上の集客と約6兆円の経済波及効果を見込むという。

 2020年の東京オリンピックと2025年の大阪万博。高度経済成長期の巨大イベントが半世紀ぶりに蘇る2020年代とは、この国にとっていったいどのような時代なのだろうか。

 よく知られるように、オリンピックと万国博覧会の誘致は第二次大戦前にさかのぼる。「紀元2600年」(1940年)の記念事業の一環として、文字通り国威発揚のために計画されたが、日中戦争の勃発によって返上・中止に至った。そしてこの2大イベントは、極東の小国を世界に認めさせる至上の祭典、すなわち見果てぬ夢として戦後へ持ち越されたのである。

 やや図式的に言えば、戦後復興を抜け出し高度成長の急坂を駆け上がる中で、日本の為政者はもう一度、「国」の観念をつくり直すべく、この「夢」に思い至った。人々もその企図に賛同した。実は1960年の安保闘争で、ナショナリズムは「岸(信介)を倒せ」「民主主義を守れ」という少々ねじれた表現となって出現していた。小熊英二の言葉を借りれば、「民主と愛国」とはひとつの熱気のふたつの側面だったのである。

 その熱気を政治行動から経済活動へ転換させたのは、池田勇人と彼のブレーンが生み出した「所得倍増」という戦後最強のスローガンだったことは言うまでもない。東京オリンピックは、そうした転換にかたちを与えた。“世界に再び迎えられた日本”という眩(まばゆ)いイメージが東京オリンピックにはあった。小学生だった私は子どもなりに、世界と日本の和解を感じて胸を熱くしていた。

 ところで1964年の東京オリンピックに比べると、1970年の大阪万博の意味はずっと分かりにくい。60年代の経済成長と対抗文化がないまぜになったまま、70年代の展望を誰も描けない中で万博は始まった。ナショナリズムの熱はすでに希薄になっており、代わりに生じていたのは、あてどのない多幸感と汚染された自然への危機感だった。

 しかしその巨大な無感動の中で、千里丘陵には6400万人の、戦後最大の群衆が出現したのである。彼らがひしめきあいながら見たものは何か。彼らが会場を出て日常へ持ち帰ったものは何か。また彼らが、その後の人生の折々に想起した記憶はどんなものだったのか。私にとっては、そうしたことが謎のように思えて仕方がない。

 この後掲載する「未来幻想の夏」は、大阪万博の謎解きでもあり、大阪万博から始まる1970年代の<社会意識>の変容史の一端である。1970年代は、国家や社会の編成原理が静かに書き換えられた時代だが、その内実を私たちはよくつかみ切れていない。

 その理由は、1970年代の変容が「今」に連なるものを持ち、「今」に内在しているために、対象化しにくいからである。さらに事情は日本だけに限らず、世界全体に及んでいる。「過渡期としての世界」があの時点から始まり、墨流しのように「今」に滲み込んでいる。

 「未来幻想の夏」は、実は比較的長い論考の冒頭の章である。この連載形式の一連の文章の目論見は、「日本」という観念の変容を戦後史の中で観察し、検証しようとするところにある。私のこれまでの著作(『「幸せ」の戦後史』、『「若者」の時代』)と同様、さまざまなジャンルを(できれば気ままに)横断しながら、茫漠とした「社会のこころ」に目鼻や手足を付けていきたいと思っている。

 過去の事物は懐かしくとも、それがまざまざと蘇る様子は時にグロテスクである。なぜなら、そうした事物はともに打ち捨てられ忘れ去られたあれこれの表象や記憶や思念をもろともに引き連れてくるからだ。映画『シン・ゴジラ』はそのような意味で、2020年代の先取りであるのかもしれない。蘇るものは惨劇(ろくでもないこと)をも引き起こす。そこまでしてこの国が求めているものはいったい何なのか。その正体を探るために、3度目の戦後史を書いてみたいと考えている。

1960年前後生まれの万博小僧たち 

 思えば1970年は、歴史が奪われたような奇妙な年だった。1960年代後半のそれぞれの年――67年、68年、69年――が濃い色彩と臭気を帯びているのに対し、1970年は白いのっぺらぼうのように、そこに突っ立っているだけだった。

人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会(大阪万博)拡大「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会(大阪万博)の会場
 千里丘陵の「未来都市」は、そんな歴史の失われた年に出現した。

 私は1970年当時、東京の高校生で、万博の開会から閉会までの半年間は17歳だった。

 そこへ行きたいと思ったことは、一度もない。

 友人も家族も誰一人行っていないし、万博を話題にした記憶もない。母は行きたかったらしいが、人混みや見物の大嫌いな父を説得することはできなかった。

 私自身は、鳴り物入りのお祭り騒ぎは国内外の矛盾を隠蔽するものだという「反万博」の論理を素直に飲み込んでいたし、「太陽の塔」やパビリオンは大仰な子どもだましのようで、ひとつも魅力を感じなかった。だから後に、私より年少の人たちが、万博に引きつけられ、その反動である種のトラウマ(心的外傷)さえ負っていることを知って少々驚いたものである。

 たとえば椹木野衣(1962年生まれ)は、著書『戦争と万博』(2005)の中で、7歳の自分が万博から強烈な印象を受けたと述べている。椹木はみずからキュレーションを行った展覧会「日本ゼロ年」(1999年11月~2000年1月、水戸芸術館)で、岡本太郎を筆頭に万博に縁の深いアーティストを何人も選んでいたが、そうした「偏り」に彼自身の万博体験の痕跡を認め、次のように書いている。

 それにしても、なぜ、わたしは大阪万博に関連のある作家を多く、選んだのであろう。最初は無意識的な選択であった。が、展覧会の準備を進めるに連れて考えざるをえなかったのは、自分が美術を見、価値判断し評論する目と感性自体に、どうしようもなく大阪万博の「未来」が刷り込まれているのではないか、ということであった。思い起こしてみればたしかに、わたしは「万博小僧」であった。いま、そのことを揶揄されても、事実であったことは仕方がない。万博開幕当時七歳であったわたしは、万博の「未来」について批評することなどとうていできず、あらゆるメディアから全方位的に注ぎ込まれる万博のプロパガンダに、完全に呑み込まれ、その虜になっていたといっても過言ではない。(『戦争と万博』、2005)

 椹木は「日本のゼロ年」の後、大阪万博とそこに参加したアーティストに対して改めて関心を持つようになった。そして、この一大イベントに多くの一線級のアーティストが携わり、数多くのプロジェクトに破格の予算が投じられたにもかかわらず、関連する議論や資料が、意外なくらいに残されていないということに気づく。

 『戦争と万博』は、その事実の背景を探るべく書かれた作品だが、今は引用文の中の「万博小僧」という言葉に注目するに留める。

 「万博小僧」現象は、1960年前後に生まれた世代の中に散見される。1970年に10歳前後、すなわち当時の小学生には、万博に魅せられ、衝撃を受けた少年たちが少なからずいたらしい。もちろん万博の印象や影響は一様ではない。椹木より2歳年長で大阪市内に生まれ育った橋爪紳也は、次のように記している。

 当時、小学四年生であった私は、親や親戚、知人と一緒に、また学校の遠足などで会場に出向いた。合計十七~十八回は会場に赴いたと記憶する。(中略)
 私にとって万国博覧会はSFであり、センス・オブ・ワンダーそのものであった。そこには宇宙があり、ファンタジーがあり、なによりも未来の都市と生活があった。(中略)
 私は人生で大事なもののいくつかを、万国博会場で学んだと思っている。子供心には「驚き」と「楽しみ」に過ぎなかったが、今にして思えばイマジネーションが喚起する力、多様な価値を容認する文化の意義などを、あの国家的祝祭の現場で教えられた。千里の巨大なお祭りのなかで皮膚感覚として刷り込まれたと思っている。(橋爪紳也監修『万国びっくり博覧会』、2005)

 ここには万博への強い愛着だけがあって、表面上外傷の気配はない。しかし橋爪が「私の仕事の原点には常に博覧会への関心がある」(前掲書)と述べた通り、博覧会はもとより繁華街や遊園地や見せ物などを論じた彼の著作群には、「千里の巨大なお祭り」の残影がある。それはどこか、万博に穿(うが)たれた心の空隙を埋めようとする衝迫感のようにも見える。彼もまた、撃ち抜かれた「万博少年」の一人かもしれない。

『20世紀少年』の「万博トラウマ」

 浦沢直樹も広義の「万博小僧」だろう。橋爪と同じ1960年生まれで、東京都府中市の小学校に通っていた浦沢は、万博には行かず、『日本万国博公式ガイド』を眺めてひと夏を過ごしたと述懐しており、この経験を『20世紀少年』の主人公・ケンヂに重ねて描いている。

 『20世紀少年』は、1999年から2007年まで『ビッグコミックスピリッツ』に連載された長編漫画である。遊び仲間の少年たちが空想した冒険と惨劇の未来物語が、何ものかによってその通りに実現され、大人になった彼らを巻き込み、戦いに駆り立てていく。悪と戦うと約束し合った仲間が再結成される中で、彼ら自身の人生の意味が問われていく。

 作品の中には、大阪万博が重要なイメージとしてたびたび現れる。

 まずそれは、原っぱに秘密基地をつくって遊ぶケンヂとのその仲間たち(1970年の小学校5年生)の憧れの対象として登場する。ケンヂと並ぶリーダーのオッチョは、仲間とともに大阪の親戚に連れていってもらう約束を得ている。猛烈な暑さや人出を心配するマルオやヨシツネ。「人類の進歩と調和」や「理想の未来都市」の意義を強調して弱腰の二人の尻を叩くケンヂ。クールなリーダーぶりを発揮して、希望を募りながら、効率的な見学ツアーを説くオッチョ。秘密基地には、万博への熱い期待感が草いきれといっしょにこもっている。

 ところが、ケンヂは家族の海水浴旅行に阻まれて万博行を断念する。皮肉なことに、万博見物に出かける千葉の親戚の留守宅を父親が借りることになったのだ。

 クラスには秀才のヤマネや学級委員長グッチィのように「万博組」と呼ばれる連中もいて、彼らはひと夏を大阪で過ごし、万博三昧を楽しんでいたが、一方には、ケンヂと同じように万博に行かなかった(行けなかった)者がいる。家が貧しいために新幹線代が用意できなかったドンキーもそのひとりだ。彼はアポロ宇宙船に熱狂し、「月の石」見たさに、ケンヂに借りた自転車で大阪行きをはかるが、箱根で自転車の故障に見舞われ断念する。

 もっと屈折した万博「未遂」体験を味わった者もいる。

 クラスメートの注目を集めたいがためにみずから「万博組」を宣言し、その嘘をつき通すために、家に引きこもったフクベエだ。彼はひと夏の間、毎日架空の万博日記を書き続ける。やむをえず外出するときは、支配下に置くサダキヨからナショナルキッドのお面を取り上げ、顔を隠す。ところが夏休みが明けてみると、万博でもちきりになるはずだった教室では、幽霊屋敷で怪異に遭遇したケンジやオッチョが話題をさらっている。万博ヒーローを夢見ていたフクベエは、深刻な挫折感に陥る……。

 『20世紀少年』の中で、万博は当時の追憶にとどまらない。大阪万博から45年後、世界支配をもくろむ悪の総帥「ともだち」は、東京湾岸で万博を開催する。「太陽の塔」を模したタワーを中心に、大阪万博のテーマ館やパビリオンが再現され、三波春夫によく似た春波夫が「ハロハロ音頭」を歌う。

 この悪夢のような万博レプリカこそ、ケンヂとその仲間たちに因果応報のごとく巡ってきたものの象徴である。ケンヂたちが書いた「よげんのしょ」を忠実に再現する「ともだち」の正体を追っていく中で、しだいに明らかになるのはある種の「万博トラウマ」なのだ。

 第一に表出されているのは、万博に行けなかった者たち、または万博から利得を得られなかった者たちの外傷である。これはオッチョにはなく、ケンヂにはわずかにあり、虚をついてまで人気者になろうとしたフクベエには致命的な深傷だった。

 しかし『20世紀少年』が作品としての深さを獲得したのは、恵まれなかった者の復讐劇に終わらず、1970年の少年たちに因果を含め、一人ひとりの責任を問うたところにある。彼らが何度か口にする「俺たちの空想した未来はこんなものじゃない」というセリフには「ともだち」の暴虐への憤りだけでなく、ほぼ同量の苦い自己批判がある。

 20世紀の少年たちは、今あるこの世の中が、自分たちが思い描いたイメージの産物に相違ないというほの暗い認識へたどりついてしまうのである。

「失われた未来」と自己喪失

 1963年生まれの重松清は、万博少年世代のしんがりだ。東京都下の大規模ニュータウンに育った男女の30年後の再会物語である『トワイライト』には、当時岡山県の小学校2年生だった重松自身の万博体験が流れ込んでいるように見える。

 主要な登場人物は、1975年に都下T市長山西小学校を卒業した元少年少女たち。1971年から入居を開始したニュータウン「たまがわ」に住んでいたかつての小学生たちである。時は2001年夏。彼らは39歳になっている。廃校が決定した母校の庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こすために、三々五々母校へ集まってくる。

 『ドラえもん』になぞらえてのび太に擬せられた主人公の克也は、片思いと信じていた真理子に30年前の真情を告げられて複雑な気持ちに襲われる。彼女は、小学生の頃はジャイアンと呼ばれた徹夫の妻になっていたからだ。しかもその夫婦は徹夫のDVが原因で離婚の危機にあることが明かされる。

 タイムカプセルから取り出した克也のビニール袋に入っていたのは、サインペンと色鉛筆で描いた未来の絵「21世紀の『たまがわ』」と高さ15センチほどの「太陽の塔」だった。

 翌週、ソフトウェア会社の課長代理を務める克也は、リストラを告げられた。「太陽の塔」のミニチュアを訝しがりながら、彼を慰めるそぶりをする派遣社員の優香里に向かって、万博の思い出話を次のように語る。

 「万博のテーマは『人類の進歩と調和』だったんだ。ベトナム戦争のこととか全共闘のこととか、公害とか、核実験とか、親父やおふくろが話しているのは聞いてたけど、そういうのも未来には……二十一世紀にはぜんぶなくなって、世界は平和になって、宇宙にも行けるようになって、ガンで死ぬ人もいなくなってるって、そういう未来が絶対に来るんだって、信じてたんだ。信じることができたんだよ、万博を見てると」
 自分でも驚くほど熱の入った口調になった。クサかったかな、と一瞬悔やんだ。
 だが、優香里は、克也の言葉を微笑みとまぶしそうなまなざしで受け止めた。(『トワイライト』、2002)

 妻にリストラ宣告を言い出せない克也を、離婚を決意した真理子が西新宿のホテルに呼び出す。真理子は今から大阪に行こうと言いだす。

 「万博の太陽の塔って、まだあるんだよね、あそこに」

 慌ただしく羽田から伊丹に飛んだ二人は、千里丘陵に向かうタクシーの中から、夕陽に染まって輝く塔を見る。克也にとって31年ぶりの再会だった。

 中年にさしかかった元「万博少年」を描く重松が、椹木や橋爪や浦沢と少し趣を異にするのは、1970年の「未来」の方だけが失われたのではなく、それを信じた自分たち自身もまた同様に失われたのだという苦い思いが強いことである。それゆえ『トワイライト』には、自己否定的な内省より、自己喪失的な憂愁の方が強くたちこめている。

 作家本人の文庫版あとがきによれば、2002年の単行本の帯には彼の強い要望で、「70年代型少年少女に捧ぐ」というフレーズが入っていたという。アポロが月に行き、大阪万博が開かれるのを見て、21世紀を宇宙旅行とロボットの時代と信じた少年は、もう一方でノストラダムスの予言と核戦争の恐怖を通して未来を見ていた――と重松は書く。『トワイライト』は、「そんな矛盾を胸に抱えたまま『未来』を遠望していた」少年少女に捧げた、いわば鎮魂のための小説であるという。

 1970年にまだ少年だった者たちが受けた衝撃を、ここでは「万博トラウマ」と呼んでみたい。万博のプロパガンダの忌まわしい記憶に向き合った椹木。魅了されたあげく、その幻影をいまだに追い続ける橋爪。そして、トラウマを癒すために世界の破滅を願う人物を造形した浦沢。そして、「失われた未来」に自己喪失を重ねながら、もう一度回復の物語を書いた重松。現れ方は多様だが、そうした影響をもたらした、強烈なイメージは共通している。それはあの空間が生みだした「未来」のかたちとメッセージである。

 ではその「未来」には、いったいいかなる甘美と毒が含まれていたのか? またそうした「未来」はどのように生まれたのか? (つづく)

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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