2016年11月18日
1970年3月14日の朝、大阪北摂の千里丘陵は前夜の雪もやみ、からりと晴れあがった。それでも例年にない寒さは居すわったままで、春の訪れはずっと先のように感じられた。
貴賓席にいたのは、皇太子(博覧会名誉総裁)、美智子妃殿下をはじめとする皇族のほか、佐藤栄作総理大臣(博覧会名誉会長)、船田中衆議院議長、重宗雄三参議院議長、石田和外最高裁判所長官、宮沢喜一通産大臣(博覧会担当大臣)、石坂泰三前経団連会長(万博協会会長)など、良くも悪しくも戦後昭和の成長期を支えた重鎮たちだった。
電子音響とともに巨大なくす玉が割れて2万羽の千羽鶴が飛び出し、600発の花火が打ち上げられる中、3万個の風船が舞い上がった。
「お祭り広場」では、ロボットの「デメ」が歓迎の言葉と花の香りのついた霧を噴き出して、広場中央へ進んだ。
この日から開催された日本万国博覧会は、日本及びアジアではじめての国際博覧会である。きっかけは、1963年にパリの国際博覧会事務局(BIE)から国際博覧会条約への批准を求められたことだった。
東京オリンピックの次の国家プロジェクトとして、万博はかっこうのターゲットと目された。戦前に“皇紀2600年の万博”を構想した旧商工省OBがまず動いた。次いで通産省が、日本製品のイメージアップや輸出振興など実利的なメリットを押し出して万博効果を訴え、その甲斐あってか1964年6月、閣議は1970年の開催を決定した。
この年の10月、東京オリンピックという晴れやかな舞台で、多くの日本人は世界の国から認められ、許され、祝福されたと感じた。経済成長の実感とあいまって、我々はみずからの「成功した戦後」を信じられるようになったのである。万博は、その成功をさらに推し進め、今度こそ日本を一流国へ押し上げるための方策として選択されたのだ。
もっともすべてが順調に進んだわけではなかった。
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