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「世界」を把捉しうる“スモールワールド”

 先に結論を言ってしまえば、人々を惹きつけたのは、「世界」と「未来」である。この二つはいうまでもなく、戦後の万博の中心テーマだった。ただし、大阪万博の「世界」と「未来」には独特の屈折があった。いやむしろ、その屈折が独自の「魅力」を生み出し、人々に訴えかけたと言ってもいい。

 まず「世界」は、どのように魅了したのか。

 1970年の大阪に、「世界」がやってきたことが重要である。ひとつは77に及ぶ参加国が造営するパビリオンや出展企画であり、もうひとつはそこへやってくる海外の観光客である。「世界」がこの国の万博に関心を持ち、客人となってやってきたのだ。

 これは、実は日本の歴史において稀有な出来事である。

 もちろん日本の大衆が近代史の中で、外国や外国人と遭遇しなかったわけではない。戦前の日本は、台湾、関東州(遼東半島)、朝鮮、南洋群島を植民地として領有していた。また日本の強い影響下にあった満州国も事実上の植民地である。こうした「外地」では、多くの日本人がその地の人々と接する体験を持った。

 また敗戦から7年間、日本はアメリカの占領下にあった。進駐軍を含む多数のアメリカ人との交流・交渉は大衆的なレベルに及んだ。さらに怒涛のように流れ込んだアメリカニズムとの遭遇は、戦後日本文化に決定的な影響を与えた。

 さらにいえば我々は、この国に暮らす多くの在日朝鮮人とさまざまな軋轢(その多くは不当な差別によって引き起こされた)を伴う関係をつくりだしてきた。

 以上のようにこの国の人々は、戦前・戦後にそれなりの広がりと深さの外国・異文化体験を持つものの、少数のエリートを除けば、「世界」と向き合うことはなかった(その必要もなかった)。大衆が経験したのは、その時代の国策や国情によって利害関係を違える「相手国」にすぎなかったのである。

 1950年代後半以後、テレビが家庭に届ける映像によって、人々は「世界」のイメージを断片的につかみはじめた。渡航制限(年間渡航回数・外貨持ち出し額の制限)や「1ドル360円」の固定相場制などによって、海外出国の敷居が高かったこともあり、「世界」を実感したいという欲求は60年代以後、満たされないまま急激に拡大し、熱を帯びた。

 北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(1960)や小田実の『何でも見てやろう』(1961)から森村桂の『天国にいちばん近い島』(1966)を経て、藤原新也『印度放浪』(1972)、後には沢木耕太郎『深夜特急』(1986~)に至る海外紀行の系譜は、我々の「世界認識」への満たされない欲望の反映である。

 だから大阪万博に到来した「世界」は格好の娯楽と学習のネタになった。パビリオン群は「世界」を一挙に把捉しうる、安価で安全な“スモールワールド”である。

 吉見俊哉は、19世紀ヨーロッパに誕生した博覧会が、主体と分離した客体を序列・分類などの枠組みで編成する新しい“まなざし”と機を一にするものであったと述べている。大阪万博もまたそのような意味で、戦後の日本人が「世界」をひとつの対象として、一望のもとにおさめたいという欲望を実現するものだった。

劣後意識の解消を求めて

 そしてこの欲望は、劣後意識の解消を求める、もう一段深い欲望につながっていた。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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