2017年02月01日
万博会場が、未来都市のイメージをかたどるものであったことは重要である。会場基本計画のコンセプトである「未来都市のコアのモデル」は、基本調査と計画立案の前半を担当した京都大学の西山卯三から出たもので、「会場全体が未来都市のコアモデルとなるように、科学技術による現代の知恵を結集し、未来への実験場にふさわしく構成する」(『日本万国博覧会公式記録』、1971)とされた。
西山は戦前からマルクス主義に近い研究者であり、戦後は「食寝分離論」を提唱して日本住宅公団の「nDKモデル」に影響を与えるなど、一貫して大衆の住まいに関心を持っていた。ゆえに西山が会場基本計画で語っていたのは、未来都市に求められる機能や便益を予測し、そのハードウェアやソフトウェアを模擬的に実現する展示実験空間だったと思われる。
西山の後をついで会場計画を完成させたのは丹下健三である。西山・丹下間には確執があったようだが、私はその詳細を知らない。結果として丹下は基幹施設プロデューサーに就任し、西山案を継承しつつ、計画・設計に全面的な指揮権を発揮した。
西山案には当初、丘陵の地形や自然を生かす案も含まれていたようだが、会場予定地を貫く自動車道の建設が優先され、棄却された。計画作成の後半を受け持った丹下の最終案が示したのは、地形や植生を一切はぎ取った人工の空間だった。ここに南北に軸を通す幅150メートル、1000メートルに及ぶシンボルゾーンが形成され、その東西に羽を広げるように展示館のためのスペースが確保された。
むろん博覧会の歴史に「未来建築」や「未来都市」はつきものだった。特に20世紀に入って万博の開催地の中心がヨーロッパからアメリカへ移ってから、その傾向は顕著になる。
「明日の世界の建設と平和」をテーマに掲げて、1939年から40年まで開催されたニューヨーク博覧会はその代表である。シンボルゾーンには、高い塔と巨大な球、球につながる円形のスロープを設け、観客はエスカレーターで球の内部に入り、明日の都市のパノラマを楽しんだ。
またGMの企業パビリオンとして名を馳せた「フューチャラマ」はライド型のジオラマ・アトラクションで、20年後のアメリカ――超高層ビルの立ち並ぶ都心と郊外住宅地を自動化された高速道路ネットワークが結ぶ1960年のアメリカ――を見せるという趣向だった。
第二次大戦後の万博にも未来志向は引き継がれた。「科学文明とヒューマニズム」をテーマに掲げたブリュッセル博覧会(1958)には、原子模型をかたどった「アトミウム」というタワーが出現した。「宇宙時代の人類」をテーマとするシアトル万国博(1962)のシンボルタワーは、針のような塔に空飛ぶ円盤型の展望台を乗せた「スペースニードル」である。
ただそうした未来志向の建築は、モントリオール博(1967)の集合住宅「アビタ67」でいったん区切りを打った感がある。この住宅は万博会期後も実際に住宅として使用されることになっており(現在も使用中)、従来の“万博建築”とは一線を画していた。いわばこの博覧会で、「未来」はジオラマや仮設空間ではなく、“今ここから始まる”生活の時空間としてとらえられたのである。
大阪万博の「未来都市」はしかし、こうした変化には無頓着だったように見える。プロデューサーもアーキテクトもデザイナーもエンジニアもアーティストも、こぞって架空・虚構・仮設の「未来都市」づくりに狂奔した。
会場の全体設計を率いる丹下健三の一門に、
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