2017年02月08日
藤森照信によれば、丹下健三が建築史に残した業績のひとつは、「ル・コルビュジエが果たし得なかった夢を実現したこと」である(「丹下健三の世界における重要さ」、『丹下健三 伝統と創造――瀬戸内から世界へ』、2013、所収)。1931年に「ソヴィエト・パレス」のコンペで、コルビュジエが発表しながら日の目を見ることなかった計画――「巨大なアーチを立て、そこからワイヤーを下げてホールを包む梁を吊るという大胆不敵にして合理的、そして想像力溢れる計画」(前掲書)――のことを指している。
ふつうアーチとは壁を支えるものだが、このアーチは上に何も乗せず、逆に頂部からワイヤーで構造物を吊ろうというものだった。虹のように架かる大アーチは、材料と構造自体を見せようという近代主義建築を突き詰めた表現だったのである。
丹下は広島高校時代にこの計画を雑誌で目にし、感銘を受けた。完成していれば、コルビュジエの最高傑作になったと言われるが、すでにスターリンに実権が移っていたソヴィエト政府は、モダニズムの建築家を選択するつもりはなかった。
そして藤森によれば、「ソヴィエト・パレス」は「地に落ちた一粒の麦」になった。コルビュジエに続く世代が、アーチの夢を追った。戦後は、アメリカのエーロ・サーリネン、ブラジルのオスカー・ニーマイヤー、そして丹下が三つ巴で先陣を争う。サーリネンがジェファーソン記念碑のコンペの一等案(1947)で先行するが生前には完成せず、丹下は広島ピースセンター(「広島平和記念資料館」とその関連施設)のコンペ案(1949)で構想したが、その通りには実現しなかった。
サーリネンの早い死のあと、1964年に丹下は代々木の国立競技場で「夢」を叶える。2本の立柱の間に張ったメインケーブルから観客席にサブケーブルを架け渡す二重の吊り構造とともに、巴型に配置された観客席はみごとなアーチをなしていたのである。藤森はそう語っていないものの、丹下の頂点はやはりここにあると言わざるをえない。
では岡本太郎が戦後、追い求めたものはなんだったのか。
丹下におけるル・コルビュジエは、岡本におけるピカソである。「水差しと果物鉢」に遭遇して以来岡本は、はじめは無意識に、後にはほぼ確信に満ちてピカソを追体験し、そこから自身の世界観や方法論を構築していく。
一つめは、矛盾を抱え込み、緊張関係をつくりだすやり方だ。岡本はシュルレリスムに滑り込んでいくさなか、パリ万博(1937)で「ゲルニカ」に出会い、古典主義とロマン主義を矛盾のままに強烈に内包したこの作品にアヴァンギャルドの原型を見出す。後にこれが「対極」という岡本の方法論の核心となる。
二つめは、
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