日本の抒情の世界を塗り替えた、ディランの影響を受けた歌手の登場
2016年10月21日
編集者学会のセミナーのために伊那へ出かけた。編集者学会は、出版文化を編集者という具体的な人にスポットを当てて研究しようという集まりで、不定期刊ながら「エディターシップ」という機関誌も出している。長野県は岩波書店の岩波茂雄、みすず書房の小尾俊人、筑摩書房の古田晁など優れた出版人を輩出した土地であり、また、独自の地方出版も盛んに行われている。
東京を8時33分に出発する新幹線に乗り、豊橋で飯田線に乗り換える。その列車に乗り遅れると伊那の飯田まで列車だけを使って行くことができなくなる。新宿からの高速バスを利用するか、名古屋へ出て高速バスをつかまえるかの選択しかないと知り、大慌てで「ひかり」の乗客となった。飯田線に乗ってみたかった。右岸に中央構造線が走り、左岸に天竜川が流れる飯田線は、地盤が極めて不安定で、難工事の連続だったそうだ。工事には多くの朝鮮人労働者が従事していた。また飯田線が走る伊那谷から満蒙開拓団へと出た人が多いことも知られている。
そうは言っても私が伊那について知っていることと言えば小畑実の「勘太郎月夜唄」に「伊那は七谷、糸引くけむり」と歌われた場所だという程度でしかない。「影か柳か、勘太郎さんか」で始まるこの唄をたいへん愛した編集者がいた。酔うと「菊は栄える、葵は枯れる」と歌い出す。「勘太郎月夜唄」は尊皇派を助けるやくざを主人公にした映画の主題歌だ。「なりはやくざにやつれていても、月よ見てくれ、こころの錦」と唄ったのは河出書房新社の飯田貴司さんで、今のもうこの世の人ではない。飯田さんが亡ってからかれこれ15、6年になる。「勘太郎月夜唄」を覚えている人もしだいしだいに少なくなったが、以前はカラオケなどでこの唄を唄う人も多かった。
「勘太郎月夜唄」が昭和18年に股旅物の映画の主題歌として作られたことを知ったのはずいぶんあとだ。戦時下で股旅物の映画を撮影するのは、なかなか許可が下りなかったところを、尊皇派を助けるやくざという架空の人物を設定して撮影許可を得たものだ。主題歌の歌った小畑実は平壌出身で、本名を康永喆(カン・ヨンチョル)と言う。「勘太郎月夜唄」を歌う小畑実を私は子どもの頃、NHK が放送した「思い出のメロディー」で見ている。戦中から戦後へかけて数々のヒット曲を出した。昭和50年代に懐メロブームが起きた時には、韓国でも本名で歌手として活躍したそうだ。
伊那から帰って読み出した梶山季之の「性欲のある風景」という小説に1945年8月15日の玉音放送の時、京城(ソウル)の映画館で尊王を絡めた股旅ものの映画を見ていた青年のことが書かれていた。主人公の青年が見ていた尊王を絡めた股旅ものの映画というのはきっと「勘太郎月夜唄」に違いない。
小畑実が主題歌を歌った「勘太郎月夜唄」が制作された昭和18年は、塩尻市出身の古田晁が筑摩書房を創立した年でもある。古田晁についてセミナーで講演した大阪芸術大学の長谷川郁夫さんによれば、多額の資本金を提供したのは貿易商であった古田の父親だったそうだ。講演では筑摩書房設立のかげに「展望」編集長となる文芸評論家の臼井吉見と協同関係があったこと、協同関係が築かれる背景には旧制松本高校の同級生としての友情があったことなどが語られた。古田が筑摩書房を設立した頃、臼井吉見は伊那で中学の教壇に立っていた。古田晁のもつ資金力は、この友情の大きな支えだったことを長谷川さんはかなり慎重に語っていたのは、会場の聴衆に伊那の地元の人が多かったためだろう。
長野の地理、産業、名勝、歴史的人物などが歌い込まれた「信濃の国」は、長野県出身者は必ず歌えると教えられ、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください