ディランの音楽の総体は「カバー」なんじゃないか
2016年10月21日
ニューオーリンズ・ソウルの女王アーマ・トーマスのライブを見ていたときのこと。ラストにボブ・ディランの「フォーエバーヤング」を歌った。絶唱だった。鳥肌が立った。気絶するかと思った。
一緒に聴いていた、音楽評論家の大先輩も、いたく感動しておられた。ディラン研究家でもあるその先輩に、「ディランのより、いいんじゃないすかね?」と調子に乗って申し上げたら、「そうじゃない。そういうことじゃ、ねえんだ」と怒られたことをよく覚えている。
だからおまえはだめなんだと、また怒られそうだが。しかし、以後もこの疑問が頭を離れない。ディランの曲って、カバーの方がよかったりするとき、けっこうあるんじゃないの?
2016年のノーベル文学賞を授与されたディランは、多作の天才である。また、多くの歌手にカバーされることでも知られている。
なにしろ、いちばん有名な曲「風に吹かれて」にしてからが、ディランのオリジナルより、ピーター・ポール&マリーのカバーで世に知られるようになった。日本でもテレビドラマの主題歌になったから、PP&Mバージョンで知ったという人が、けっこう多い。
そして、このPP&Mバージョン、やっぱりよくないですか? ディランのオリジナルより、なんというか、曲を大切にしているような感じがある。ディランのは、いいんだけれど、ぞんざいに、投げ出して歌っているような気がする(そこがよいっていう視点も、承知しているつもりだが)。
忌野清志郎が強烈なロックに改変して歌った、RCサクセションの「風に吹かれて」を覚えている人も多いだろう。山口冨士夫が酔っぱらった感じで乱入してくるところなんか、もう、ぞくぞくするほどかっこいい。南沙織(!)のカバーなんてのもあった。これがけっこう、よい。ちゃんとした歌謡曲になっている。
こう言うと、ディラン教の信者にほんとにぶん殴られるかも知れないが、日本人では、遠藤ミチロウ(exスターリン)の「天国の扉」も、オリジナルを、ある意味、超えているんじゃないかと思っている。人間は死すべき存在だ。どうやって死ぬのか。死を忘れるな。メメント・モリ。そういう感じが、よりよく出ている。
歌唱力がディランとは段違いだから、ソウルやジャズシンガーに歌わせると、もう全然違う曲に聴こえる。輝き出すということはよくある。
前述の「風に吹かれて」は、スティービー・ワンダーが歌うと、荘厳なゴスペルになる。神々しい。「エモーショナリー・ユアーズ」は、オージェイズが歌った方が、ぜったい生きる力がわく。ソウルフル。ディランのは、なんか、わざと盛り下げてるんじゃないかと思うほどの、力の抜け方。まあ、それも笑えて楽しいんだけれど。
ニーナ・シモンの「ジャスト・ライク・ア・ウーマン」の、シルクみたいな肌触りの歌は、どうだろう。繊細で深くて清らかで。ニーナより、ディランのしわがれ声のオリジナルの方が、絶対にいいですかね?
自分の疑問が確信に変わったのは、
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