ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田裕之 訳
2016年10月28日
上下巻の本。中途半端な編集者として20余年を過ごしてきた私にとっては、あこがれの存在であります。恥ずかしながら、なにしろ作ったことがありません。10年くらい前に1回だけ原稿をもらうところまでいきましたが、異動したので編集できませんでした。
悔しいので「1冊でも世界を変えられますぜ」とうそぶいてサクッと読める企画を投入しては失敗し、すると社内で「井上さんの編集する本はあれだよね」といわれ、だんだんと仕事のスケールが小さくなってきて……という感じの悪循環。
そうこうしているうちに、いまでは誰もが「市場が厳しい」という話をするので、一般向け書籍編集の世界では上下巻どころか紙の本1冊を出すことすら大変な現状となってしまいました。
そんな市場に投入されたこの『サピエンス全史』。このご時勢に、まさに大型企画という風格でやってきました。うらやましい。
『サピエンス全史——文明の構造と人類の幸福(上・下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田裕之 訳 河出書房新社)
翻訳のこなれ具合も尋常ではありません。この本、歴史を描いているのに話題が多岐にわたり、仏教学から遺伝子工学までさまざまなジャンルの用語が出てきます。それらも分かりやすく訳出されており、相当な手間をかけて編集されてきたと思われます。
そのアオリ文句、「なぜ我々はこのような世界に生きているのか?」というもの。「我々はどこから来て、どこへ行くのか?」というありがちな文句より射程が広いことが分かります。
実際、本文は平易な語り口で、豊富なエピソードとともに人類史全体をガッツリ読ませてくれます。
この「人類史」の視野は過去だけではなくて未来にまで及び、「ええっそんなことになるの!」的な「人類の終わり」まで語り切ってくれます。その間、「農業革命は壮大な詐欺だ!」などと、これまでの思い込みをいちいちひっくり返すような議論が連続し、まさに興奮の書であります。
こんな本が作れるなんて、うらやましいねたましい。こう悶えながら読み進めたわけですが、本書によれば、そんな感情を持ってしまうこと自体が人類を地球の支配者とさせ、また多くの種を苦しめている、ということでもあるようです。
どういうことか。人類史の大半において、人間はうらやましがったりねたんだりしないで人生を終えていました。社会の構造があまりに固定化していたうえに、それを結びつける宗教はだいたいが「人間の黄金期は神様がいた大昔で、いまは衰退期。だからせめて神様の教えを守って現状維持しよう」というメッセージを放っていたからです。
私の先祖の農民は、領主様の暮らしをうらやんだりせず、使っている農具に改良を施して売っぱらって一儲けしようとも考えずに、畑仕事を続けていたわけなのでしょう。
ところが人類、この本でいう「サピエンス」は、長い時間をかけて「虚構」を信じるという脳を手に入れてきました。宗教もそのひとつで、大勢の人間を大戦争に動員することを可能にしました。そして「貨幣」という壮大な虚構を信じ、そのうえに未来の大儲けを期待して投資するという「市場」まで信じるようになりました。
そうなると、人類はうらやましさのような感情を行動に移せるようになるわけです。
海の果てにジパングなる黄金の国があるらしい。そこへの航路を開拓したらすごいことになる。よっしゃ、船を出したろ……。
コロンブスがうまいことやったらしい。だったら俺もあの辺にいってひと稼ぎだ。いや、俺は航海する連中に金を貸して儲けてやろう……。こうして人類が抱える富は飛躍的に増えていきます。
テクノロジーもそんな感じで発展します。もっと効率的に生産する方法があるのでは、もっと早く移動できるのでは。こんな渇望にドライブがかかって、数十万年ものあいだ誰も想像すらしなかった超文明が200年くらいで実現してしまいました。
安定した社会でイノベーションなど考えずに暮らしていたほうが幸せだったかもしれませんが、少なくとも欧米の人間はこのような思考法で世界を変えてしまったわけです。
ところがその過程で、誰も「他者」のことなど気にかけません。具体的には先住民です。数百万単位の人々が虐待され、殺害され、民族ごと失われました。本書にはそのあたりにイヤミをいう傑作エピソードがいくつもありますが、ひとつだけ紹介させてください。
月面を目指す宇宙飛行士が、環境の似た砂漠で訓練していたところ、先住民の老人と出会う。老人は彼らが月に行くと知ると、「我らの部族は月に聖霊が住むと考えているので、大切なメッセージを託されてくれないか」と頼む。
引き受けた宇宙飛行士に「どんな意味なのかは言えない」と、部族の言葉を暗記させる老人。基地に戻った宇宙飛行士は、意味が気になって仕方がないので、八方手を尽くして、部族の言葉が分かる人を見つける。暗記した言葉をその人に伝えると、なぜか爆笑される。
どういう意味だったのか。翻訳するとこのようなものだ。
「この者たちの言うことを一言も信じてはいけません。あなた方の土地を盗むためにやってきたのです」
「知らないものや場所を渇望する人々」を象徴する宇宙飛行士と、そんな連中に「蹂躙され騙されてきた人々」を象徴する部族の老人のお話です。
こんなエピソード満載なのですから、ついつい読んで披露したくなってしまうわけで、さすが世界的ベストセラーです。
本書の告発はもう一段階あります。200年前のヨーロッパ人はいい気なもので、搾取され殺される先住民のことなどまるで考えないで暮らしていた。それはひどいと考える、現在のお前はどうか。自我もあり感情もあると分かっているのに虐待され殺される動物たちのことなどまるで考えないで毎日メシ食ってるんじゃないか、と。
実際、全世界の家畜の総量と野生動物の総量、どちらが重いか即答できる人は少ないと思います。本書によれば、前者が7億トンで後者が1億トン未満。たとえばキリンは8万頭ほどなのに、畜牛は15億頭。その大半は生後すぐ親と引き離され、檻の中で満足に体を動かすことすら許されず、効率的に殺されていくわけです。
孵化場でのヒヨコ鑑定の場面を写した写真が本書に掲載されています。そのキャプションはこんな感じです。
「オスのヒヨコと不完全なメスのヒヨコはベルトコンベヤーから降ろされ、ガス室で窒息死させられたり、自動シュレッダーに放り込まれたり、そのままゴミの中に投げ込まれ、潰されて死んだりする。このような孵化場では毎年何億羽ものヒヨコが死ぬ」
本書を読んでいくと、こんな風に人類のせいでいかに動物が受難を味わっているのかという告発も、ちょいちょい挟み込まれていることに気づきます。
上下巻という大作には、実は著者が間接的に訴えたいメッセージ(この場合は動物の受難を思いやれ、ということでしょう)もうまく潜り込ませることができるのですね。
ああ、こんなことができるなんてうらやましい。俺ももっといろんな本を試したい。で、その感情が……と本書をたたえる無限ループに陥ったところで、今回は幕を引かせていただきます。ではまた。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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