内澤旬子 著
2016年10月28日
2014年2月、東京都文京区在住の文筆家にしてイラストレーター、46歳独身の著者は、単身、小豆島に移住する。東日本大震災後、東京は「何かを失ってしまった」、狭くてビルしか見えない、「こんなつまらん生活のために、高額家賃を払いながら年老いていくなんて、バカバカしすぎる!!」と言って。
本書は、移住を思い立ってから家を決めるまでの顛末と、2年余りの島暮らしの記録だ。
インターネットや宅配便がこれだけ普及して、地方にいることは、実際にはほとんど物理的制約にならないと分かっていても、同業の知人が地方に居を移すと聞くと、どうしても「第一線からはひとまず退くんだな」的な見方をしてしまう。
だから本書も、「内澤さん、ついに小豆島でスローライフか」と、まるで若くしてリタイアした人を羨むような思いで読み始めたのだった。
だが、のんびりスローライフなど、とんでもなかった。
たとえば食料事情。ご近所からの「いただきもの野菜」はとても美味しい。だが、同じ時期に同じ作物をたくさんもらうから、保存食をつくったり、冷凍保存したり。玄関わきの梅の木に実がなれば、梅酒も梅シロップもつくれるが、それには実が落ちるまでに収穫し、「梅仕事」をしないといけない。海関係では、釣った魚をもらうだけでなく、自分で牡蠣やヒジキやウニやワカメやテングサも採れるが、どれももちろんそのままでは食べられない。
「島の暮らしでは、季節と天気と干潮時刻が行動の最優先となる。心身や仕事の都合は、二の次三の次。収穫のベストタイミングを逃すと、実が傷んだり、熟しすぎたり、腐ったり、虫が付いたり、固くなったりと、悲しくそしてもったいないことになる」
たとえば家まわり。著者が借りて住むのは築38年の木造家屋。仮住まいとはいえ、床のへこみや、ふすまの穴や、壁のシミはメンテしたい。トイレは水洗ではないので、定期的に汲み取りを申し込まないと大変な事態になる。羽虫、蛾、蜘蛛、蜂、ムカデ、蚊などなど、虫も大量発生、大量侵入。
島の湿度のせいか、家の気密性の問題か、畳にはすぐ青カビが浮き、クリーニングに出し忘れた洋服は、ほぼすべて虫が食う。ゆえに、まめな拭き掃除と服の虫干しが欠かせない。
「この島では服でもなんでも手入れをしないとダメになってしまう。自然が丁寧な暮らしをしろと要求してくるのだ」
そして著者は、ヤギを飼ってエサをやり散歩をさせ小屋を手入れし、狩猟免許を取って、狩猟仲間が獲った鹿や猪の解体を手伝ったりと、さらに手のかかる道を、果敢に進んでいく。
地方移住について、私は「田舎暮らしで生活費を抑えられれば、ガツガツ働かなくてもやっていけるんだろうな」などと思っていたけれど、暮らしのために、ガツガツ動き回っているのは著者のほうで、東京で会社員生活をしている私のほうが、はるかにヒマでボンヤリしている。
そして「生活費を抑えられれば……」という私の認識も、浅はかだった。
「たしかに島でお金をかけないで暮らそうと思えば、暮らせる。……時間と手間はかかるけど。かかるからこそ、がむしゃらに働くことはできなくなるけど」
「ただし、(農業なり狩猟なりカフェなり)、何かを生業としてやろうとすると、実は猛烈に支度金が必要になる。生活の拠点を島に移すだけでもそれなりにかかったのであるが、それに加算して、会社を興すわけではなくても、何かをやろうとすると、二倍三倍のお金は用意しなければならない」
「ここまでお金が必要とは、予想していなかった。しかもヤギも狩猟も生業でもないので、私の場合は本業で稼ぐしかない。スローライフのはずなのに、全然スローじゃないし」
こう言いつつも、著者は、海から昇る月が見えるところで暮らしたいという長年の夢をかなえ、それだけで大抵の嫌なことは溶けて消え、心穏やかに伸びやかに暮らしている。暮らしに手間をかけることも、とても楽しいと言う。
「人生の中でこんな美しい景色を毎日眺めて暮らす時期があったっていい」「仕事がこの先来なくなってしまうのかもしれない……それでも前に進みたい。未知の島に身を置いて、未知の自然、未知の人間関係を味わってみたい」
40代後半にして、「この先どんなリスクがあっても構わない」と言い切って、このような選択ができるのは、本当にすごい。それも、お金をどう稼ぐか使うかを真剣に悩みつつ、お金に依存しない「丁寧な暮らし」も極めようとする、道なき道を行く生き方。根っこのところで計算を放棄した、思いきり攻めの生き方。
私には著者のような暮らしはとてもできないけれど、人生の折り返し地点を過ぎたからといって、手じまいとかリタイアとか守りに入ったらつまんないよ、そんなこと考えなくてこんなふうに突っ走るのもありだよと、活を入れてもらった一冊だった。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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