道場親信 著
2016年11月07日
同時代の出来事の意味を、その時点ではっきりと掴むことはむずかしい。いくらかの時を経て初めて、ようやくそれは浮かび上がる。だが、振り返ろうとする者がいなければ、人びとの経験は置き去りにされ、歴史のなかに埋もれるしかない。本書の対象もまた、そのようにして見過ごされてきたものだ。
『下丸子文化集団とその時代——一九五〇年代サークル文化運動の光芒』(道場親信 著 みすず書房)
朝鮮半島で戦争がはじまり、日本各地でレッドパージの嵐が吹き荒れていた時代である。軍管理工場には米兵が銃をもって駐留し、作業を監視した。下丸子は「日本の縮図」であり、植民地化と軍事化に抵抗する労働者の象徴的な地名であった。
文化集団のメンバーは、宵闇にまぎれて反戦ステッカーを塀や電柱に張りめぐらし、詩や替え歌の掲載された壁新聞やビラをつうじて大衆にアピールした。
彼らが発行した『詩集下丸子』は、これまで詩を書いたことのなかった労働者に詩を書くことを呼びかけ、占領下におけるみずからの労働と生活を見つめることを促していた。
〈おれたちはものを言おう……/おれたちはものを書こう……/まともな人は/まともにしかものが言えないし/ひがんだものは/ひがんだようにしかものが言えない/(中略)/これは素晴しいことではないか!/おれたちはものを言おう……〉
当時、表現手段として詩が選ばれた背景には、全国的なサークル詩運動の盛り上がりがあった。また詩は、小説などに比べて短い時間で書くことができ、労働者にとっては取り組みやすい形式だった。
〈昨日あった一人の体験が作品になると、周囲の何人もの人たちの“書きたい”意欲を刺激した。そして、ものを書くという作業は、すぐれて“認識”の作業であった〉
このように、人びとに書くことを通じた意識変容、主体の形成につながる活動を組織化していこうとしたのが、彼ら「文化工作者」たちの運動だった。
その後、政治状況が大きく転換することによってサークル運動は停滞、日本社会が高度経済成長への助走をはじめるなかで、下丸子文化集団も「工作者集団」としての質を失い、59年に解散を余儀なくされる。
全国津々浦々にあったはずの詩は60年代を前に早くも姿を消すことになったが、彼らの活動はこれで終わったわけではなかった。後年、みずからの活動の痕跡を掘り起こし、時間の流れにあらがって記憶と資料を継承してきたのである。
本書は、著者がこれらの資料と出会い、研究会で仲間たちとともに読みこみ、さらには当事者への膨大なインタビューを積み重ねたところに成立した。歴史のなかから未発の可能性をくみとり現在に突きだすには、事実や解釈の提示だけでは十分ではない。当時の人びとの精神の働きに、まるでじかに触れるようでなければ、そこに手渡されるものは生まれない。
本書の行間から立ち上がってくるのは、無名の無数の人びとの生と経験を証し立てようとする意思である。ここには精神のリレーが見て取れる。「戦後民衆精神史」を掲げるにふさわしい書物である。
いま、人びとの欲望や感性を変容させていく社会丸がかりの「工作」は、より大きな流れとなって、わたしたちの目の前にある。50年代に探求された「文化」への問いかけは、古びていない。
当時のサークル文化運動が模索した「集団」の意味、「集団で表現すること」の意味を、現代に照らして、いっそう深く考えてみるべきだろう。過去の出来事は、未来からの訪れをつねに待っている。戦後はようやく振り返られはじめたばかりだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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