スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著 松本妙子 訳
2016年11月11日
ベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、およそ20年の歳月をかけて本書を出版し、2015年にノーベル文学賞を受賞した。前作『チェルノブイリの祈り――未来の物語』(岩波現代文庫)から16年、ソヴィエト時代を生きた人びとについて書かれた5部作「ユートピアの声」の完結編にあたる。
『セカンドハンドの時代──「赤い国」を生きた人びと』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ 著 松本妙子 訳 岩波書店)
「セカンドハンド」とは、著者によれば「思想もことばもすべてが他人のおさがり、なにか昨日のもの、だれかのお古のような」現状を形容している。どこかしっくりこない時代、にせものっぽい時代をさしているのだろう。
加えて、そこには、どんよりとした重苦しい時代が、またはじまるのではないかという不安も隠されている。
ここに記録されているのは、迫害や社会変化によって、魂を引き裂かれ、孤独にさいなまれながらも、救済と幸福を求めようとする人びとの声である。20の物語からなるこの圧倒的なポリフォニーを、いったいどう紹介すればいいのだろう。うまくことばが見つからない。
魂は見えないし、聞こえない。魂が声を発するのは、人が世界につらぬかれ、歴史につらぬかれるときだ。だが、その声が表にでるまでには、長い時間がかかる。むしろ、封印は永遠に解けないのが通例かもしれない。だが、わずかに封印が解かれるときがあるとすれば、それは歴史が変わろうとしているときだ。
著者の方法は一貫している。
〈わたしは、「家庭の」……「内面の」社会主義の歴史をほんの少しずつ、ちょっとずつ、拾い集めようとしながら書いている。人の心のなかで社会主義がどう生きていたかを。人間というこの小さな空間に……ひとりの人間に……わたしはいつもひかれている。実際に、すべてのことが起きているのは、そのなかなのだから。〉
本書に登場するのは、ほとんど庶民ばかりだ。しかも、圧倒的に女性が多い。長い時間をかけて著者が引きだした魂の物語は、どれも人の心をふるわせるものだ。そのひとつひとつが世界を語り、歴史を語っている。その全部をつなぎあわせれば壮大な物語ができあがる。
魂の物語、とりわけ庶民の物語が、なぜ必要なのだろうか。たいていの歴史は国家の物語である。それは偉大な指導者に導かれて国家がいかに発展してきたかという物語だ。しかし、その指導者が数かぎりない弾圧と犠牲のうえに、強大な軍事国家を築いたにすぎないとするなら、その国は、はたしてすばらしい国といえるだろうか。真の歴史が語られるのは、口を封じられた庶民が口を開くときでしかない、と著者は確信している。
ノーベル文学賞を受賞したとき、著者の住むベラルーシでは、そのニュースは短く伝えられただけで、テレビもラジオも沈黙したままだったという。本はいくつかの書店で、わずかに売られていた。ロシア寄りの独裁政権が彼女の受賞をこころよく思わなかったのは、その本に世界じゅうに伝えてほしくない不都合な真実がえがかれていたからだ。
実際、本書の最終章には、2010年のベラルーシ大統領選挙で、不正選挙に抗議する活動が鎮圧されたときの様子が、逮捕された学生の話をもとに、なまなましく再現されている。
だが、本書はけっして体制糾弾だけで終わるわけではない。ソ連時代に共産党地区委員会の第三書記をつとめていた女性は、いまだに「わたしはソヴィエト人」、「いま住んでいるのはわたしの国じゃない。よその国」だと、昔を懐かしむ。彼女はごくふつうの2DKのアパート暮らしで、党のなかでは、ごく下っぱだった。それでも「ゴルバチョフは弱すぎた」と嘆く。
いっぽう、その友人はゴルバチョフ政権末期に保守派のクーデターが発生したとき、「独裁政権のもとで生きるのはいや!」、オリのなかで「セメントのなかの蝶々」のようになるのはごめんだと思ったと話す。
エリツィン政権時代の経済危機は深刻だった。ある年金暮らしの老人は、生きる気力を失って、キュウリ畑で焼身自殺した。そのつらかった思い出を、幼なじみの女性が語っている。
もうすぐ60歳になるアンナは、子どものころ、収容所や孤児院、流刑地で暮らしたことを覚えている。鉄道ではたらいていた父は1937年に逮捕され、その後の消息はわからない。母といっしょに収容所に送られ、3歳で母から引き離され、孤児院に移された。教官からは「同志スターリンを愛すること」、「あんたたちのママは母国なんだ」と教えられた。9年たって、やっと母と再会できたかと思うと、そのあと流刑地での生活が待っていた。ようやく町に戻るのを許され、結婚し、息子が生まれ、40歳で自分の家をもったが、いつもびくびくしながら暮らしている。
その息子の話がまた強烈だ。かれは軍のパイロットとしてアフガニスタンに勤務し、めでたく、ある娘と結婚することになった。あるとき、その祖父と会う。豪邸でくらし、広いダーチャ(別荘)もあたえられている名誉退役軍人だ。「若造、いいか、わしの話をよく聞け。わが国の人間に自由を与えてはならんのだ」と、老人はいった。話を聞くうちに、この老人が、数え切れないくらいの逮捕者をピストルで処刑していたことがわかり、震えがとまらなくなった。青年は逃げだし、結婚式はながれる。ソ連崩壊後は軍をやめ、市場で店を開いた。
かれは話しつづける。
〈スターリンは息子に教えていた「おまえは、とうさんのことをスターリンだと思っているのか? そうじゃない! スターリンはあの男だ」。そして、壁にかかっている自分の肖像画を指さしたのだと。死のマシーンなんです……。マシーンはノンストップで動いていた……数十年間……。〉
いま、かれは家族とともにロシアを離れ、カナダに移住したという。
愛をめぐる話もある。民族紛争が激化するなか、カスピ海に面するバクーでは、あるアルメニア人女性とアゼルバイジャン人の若者が恋におちていた。ふたりの物語は、まるで現代版のロミオとジュリエットだ。
いなかからモスクワにでてきた少女が、めくるめく90年代を経験し、妻のいる男性と恋をし、子どもができ、別れ、それでも生き抜いて、いまでは広告代理店のマネージャーとして、それなりにお金を稼いでいるという話は、ロシア女性のたくましさを感じさせる。
あるウェイトレスの女性は、たたかうことに疲れたという。泥沼の人生を歩んできた。最初に結婚した相手は飲んだくれだった。二度目はアフガン帰りで、なにひとつ仕事がつづかない。いつもへべれけに酔っ払って、暴力をふるう。ウオッカも戦争も治療なんてできない、と思う。「人生でうつくしいものなんてなにも見なかった」ということばを残して、彼女は自殺する。
夫と3人の子どもがいる身でありながら、すべてをなげうって、終身刑の囚人のもとに走る女性の話は、ドストエフスキーがえがいたソーニャのような人がいまでもロシアに実在するのだという驚きすらおぼえさせる。
本書には、こんな話がいくつもつめこまれている。それは愛と死と生の物語が織りなす鮮烈なタペストリーだ。ここからは、かつてソ連と呼ばれた「帝国」に生きた人びとの声が聞こえてくる。それらをどう受けとめればいいのだろうか。魂の声は国を超えていく。
ヴァルター・ベンヤミンは、バベルの塔が崩壊する以前に、いわば「純粋言語」なるものがあったと夢想した。そして「異質な言語の中に呪縛されているあの純粋言語をみずからの言語の中で救済すること」こそが翻訳者の使命だと考えた。世界がひとつになるのはむずかしい。しかし、文学は国を超え、人の魂と魂をつなぐ役割をはたしうることを、本書もまた感じさせてくれる。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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