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[書評]『大人に贈る子どもの文学』

猪熊葉子 著

野上 暁 評論家・児童文学者

3・11以降の鬱屈する精神のストレッチに!  

 東日本大震災とそれに続く原発事故により、私たちは日本列島のどこに住んでいようとも、金持ちも貧乏人も大人も子どもも、大きな自然災害とそれに伴う大きな破壊や事故に遭遇する可能性を免れることができないと認識せざるを得なくなったと、著者はいう。それはまるで、ギリシャ神話の「ダモクレスの剣」のようではないかと。

『大人に贈る子どもの文学』(猪熊葉子 著 岩波書店) 定価:本体2100円+税『大人に贈る子どもの文学』(猪熊葉子 著 岩波書店) 定価:本体2100円+税
 それに加えて、リーマンショック以降続く経済的混迷、子どもの貧困、幼児虐待や老老介護の悲惨な実態、高齢者の孤独死などが新聞やテレビで毎日のように報道されるから、将来に明るい希望が持てない。

 様々な不安を抱えている人々に、何か有効な癒しの方法が発見できるだろうか。

 3・11以降考えあぐねていた著者は、長らく関わってきた子どもの文学の価値を立証し、世人に認めてもらうことだという終生の課題に思い当たる。

 子どもの文学には、困難に直面してもめげずにそれを乗り越え、幸せなゴールに至る物語がたくさんある。

 「それらは、大人の諦念や常識に揺さぶりをかけて、人間の幸せの原型ともいえるものを発見させてくれる力をもっているのではないか。わずかでも時間を割いて子どもの文学を読んでみたら、ストレッチでこわばった体をほぐせるように、現実の暗さのなかで強ばったり、忘れられたりしている理性や感情、想像力、空想力などがもみほぐされて活性化するのではあるまいか」と著者は考える。

 そして、「子どもの文学の価値を証明するのは、人間にとっての幸福とはなにか、という大切なことを考える出発点だったのだ」と思いいたる。

 著者は、英米児童文学の翻訳者であり、長年大学で教鞭をとってきた児童文学研究のパイオニアであり第一人者である。イギリスのオックスフォード大学に留学し、「指輪物語」の著者、J.R.R.トールキンに指導を仰いだ、日本人としては唯一の人でもある。彼女がなぜ子どもの文学研究の道に進んだかというのも、なかなか興味深い。

 父は外科医で、母は幻想的な歌人の葛原妙子。1928年、その長女として誕生した彼女の子どもの頃の愛読書は、武井武雄のマンガ『赤ノッポ青ノッポ』で、紙芝居の「黄金バット」にも夢中になり、それがきっかけで少年講談を読みふけったともいう。

 小学校に入ったころから両親の不和を感じ取る。文中で紹介されている葛原妙子の歌がすごい。

 「わが死を禱(いの)れるものの影顕(た)ちきゆめゆめ夫などとおもふにあらざるも」
 「けいけいとなにを企む夫よりものちに死にたしとおもひたる日は」

 父母の葛藤は幼い著者に精神的な負担となり、自家中毒になったり扁桃腺を腫らしたり、一種の心身症の症状を引き起こす。それもあって、『若草物語』『ケティー物語』『愛の一家』など、温かい家族の物語に耽溺したという。

 両親の不和が本の世界に逃げ込む要因だったが、親しい友だちがいなかったことも、幼くして本の虫になった理由ともいう。小学校中学年ごろから、外国の子どもの本に夢中になり、遠い国々の自然や風物に触れ憧れがかき立てられる。

 重苦しい日常生活から解放される方法のひとつは、ワクワクする冒険小説を読むことだった。『宝島』『ソロモン王の洞窟』『巌窟王』『鉄仮面』『紅はこべの冒険』『三銃士』『トム・ソーヤの冒険』などの冒険ものを読みふける。戦後、専門学校から大学に進んだのちも、子どもの文学への興味は薄れることなく、卒論で児童文学をテーマにし、大学院の修士論文でも児童文学を選び先生方の顰蹙を買う。児童文学を専門にする先生などいなかったのだ。

 児童文学の一大生産国のイギリスに行けば、研究に役立つ何かが見つかるかもしれないと、ブリティッシュ・カウンシルの留学試験を受けて合格したものの、イギリスでも児童文学の講座を持っている大学など皆無だった。

 そんななかで、やっとあなたの指導者が見つかったと知らされてきたのが、オックスフォード大学のトールキン教授だった。1957年の秋、長い船旅でオックスフォードに着き、トールキン教授の個人指導を受けることになる。

 児童文学研究の黎明期を担い、研究が多様化していく中で大学院もでき、それを支えてきた著者である。彼女が案内する、豊饒な子どもの文学の海に漕ぎだす最初の作品は、前世紀末から一大旋風を巻き起こした『ハリー・ポッター』。この作品の、世代を超えた拡張によって、大人と子どもの垣根を超えて読まれる「クロスオーバー・フィクション」という文学の新しいジャンルが生まれたという。

 クロスオーバー・フィクションにはファンタジーが多い。『ホビットの冒険』『指輪物語』『ゲド戦記』などもそうだ。『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』なども、大人の文学世界へ子どもが越境入国したという意味で、クロスオーバー・フィクションだといえる。こうして子どもの文学の文学的特質を探り出すため、優れた作家たちがどのように書いてきたのかを探索する。

 「ルイス・キャロル――現実からの逃避」「ローズマリ・サトクリフ――欠落感を償う」「フィリパ・ピアス――日常経験の洞察者」「メアリー・ノートン――社会への批判精神」と、子どもの文学の書き手たち4人にアプローチした後、子どもの文学の特質に言及し、「大人にすすめたい物語」を、ファンタジー作品とリアリズム作品に分けて紹介する。いずれも名だたる名作である。

 「子どもの文学は、大人になってすでに強ばってしまった精神を、ふたたび潤す滋養となることが多いのだ」というサトクリフの言葉そのままに、自己の中の「子ども性」に出会い、精神を活性化させる物語の魅力に陶酔できる作品ばかり。子どもの文学に関心のある人だけではなく、豊かな物語世界を味わいたい読者にもおすすめだ。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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