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[書評]『読書と日本人』

津野海太郎 著

松本裕喜 編集者

日本人はどういうふうに本を読んできたのか 

 書名に惹かれて読んでみた。「読書」をテーマにした本は多いが、ほとんどが読書術や読書論など方法や技術、体験についてふれた本で、日本人の読書を歴史的にたどった本は目にしたことがなかったからだ。

『読書と日本人』(津野海太郎 著 岩波新書) 定価:本体860円+税『読書と日本人』(津野海太郎 著 岩波新書) 定価:本体860円+税
 本は2部構成になっている。「日本人の読書小史」と「読書の黄金時代」(20世紀の読書)だ。

 「読書小史」は平安時代から明治前期を扱っている。著者は、黙って一人で本を読む読書=黙読は、菅原道真から菅原孝標の女(むすめ)にいたる150年間の間に、読書のスタイルとして定着したのではないかと推測する。

 孝標の女は『更級日記』(11世紀後半)で「誰にも邪魔されず、几帳の中にこもりっきりで、『源氏物語』を1冊1冊取り出して読んでゆく」喜びを語った。

 それより150年前、菅原道真は『書斎記』(889年)で一人静かに過ごすことのできる部屋のないことに不満を漏らした。当時の貴族の住まいである寝殿造りの建物は外壁もないがらんとした空間で、屏風や几帳や衝立などを仕切りにして使っていた。つまり個室がなかったわけである。

 個室に近い部屋ができたのは室町時代の1480年代、足利義政によって書院造りの山荘「東山殿」(銀閣寺)が建てられて以来だという。

 本来は「語られるもの」だった物語が『竹取物語』(9世紀後半)あたりから文字で記されるようになった。家庭教師役の女房たちはそれを姫君たちに読んで聞かせた。しかし『源氏物語』になると、読んで聞かせる物語だったのか(音読)、女房たちが黙って一人で読んだのか(黙読)、国文学者の中でも意見が分かれるらしい。

 孝標の女は本を頭から読んでゆく「一気読み」読書だったが、道真は何冊もの資料を参照しながら1冊の本をじっくり読んでゆく「学者読み」読書だった。「学者読み」では、読みながら重要な部分は短冊状の紙片に書きとめてゆく。当時、本といえば写本で、巻子本(巻物)が多かったから、後で必要な箇所を探しにくい。また本の数が限られていたため、借りて読むことが多かった。重要な箇所は書き抜くしか方法がなかったのである。

 その後『源氏物語』の読者は、女房に代表される貴族階級の女性たちを経て、上層・中層の武士たちに広がってゆく。これには9世紀半ば以降に生まれた片仮名・平仮名の普及が大きかった。慈円は片仮名混じり文で『愚管抄』(1220年頃)を書き、蓮如は平仮名混じり文で『御文』(15世紀後半)を書いた。誰にでも理解可能な日常的な言葉で書くことが重要だと考えたからだ。

 庶民層にまで読書が広がったのは江戸時代であった。仮名の普及によって文字に対する畏敬の感情が薄れ、印刷(コピー)を受け入れる心性をも育んだと著者は見る。『源氏物語』をはじめ、『古今集』『竹取物語』『伊勢物語』『方丈記』『徒然草』は江戸初期になってはじめて印刷され、刊行された。

 江戸や大坂には本屋・版元が多数でき、本の大量生産と流通網が整ってきた。それを後押ししたのが、井原西鶴の『好色一代男』や貝原益軒の『和俗童子訓』などのベストセラーであった。

 読書の習慣が社会に定着するには、(1)その社会の多くの人が読み書き能力を身につけていること、(2)誰もが本を入手できる流通の仕組みができていること、が必要であると著者はいう。

 江戸時代、庶民の子弟は寺子屋(手習塾)で読み書きソロバンの能力を身につけた。寺子屋を卒業してさらに勉強したいと思った庶民は、『経典余師』シリーズのような平仮名で読み方や注釈を付した儒教経典の自習書などで学んだ。写楽を売り出した蔦屋重三郎も『孝経平仮名附』『絵本二十四孝』などの啓蒙書を出版している。いつの時代でも、よくできた入門書やハウツー本の需要は高いようだ。

 明治になると活版印刷機が導入され、文字は木版印刷のくねくねした続き字の書体から漢字と仮名が同じスペースに整然と並ぶ活字本で印刷されるようになり、本も小型化した。明治20年代から30年代にかけて、母や祖母の読み聞かせる絵双紙や父や祖父による素読教育までの音読の習慣は、「読者は他人を交えることなく孤独で作者と向い合い、かれが囁く内密な物語に耳を傾ける」(前田愛)=黙読へと変わってゆく。

 著者は前田の「近代読者」の誕生説に賛意を示しながらも、万葉の昔から詩歌や文章を黙って一人で読む黙読もあったはずで、音読と黙読の共存はずっと続いてきたのではないか、それが「日本人の読書史」ではないかと考えている。

 著者が「読書の黄金時代」とよぶ20世紀には、「黙って一人で読む」読書から「見知らぬ他人たちとともに(同じ本を)読む」へと読書の意識が変わったという。読み書き能力(識字率)の向上と産業としての出版業の台頭(本の大量生産と全国的な流通網の整備)によって、誰もが本を読める時代=読書の平等化が実現した。

 1905年(明治38年)には年間の出版点数は2万点を超え、非識字率は10.9%となり、以降大正年間を通じて0%に近づいてゆく。関東大震災の復興過程で100万部雑誌『キング』が創刊され、昭和に入ると1円均一の全集本(円本)、内外の古典などの安価な小型本である文庫本がブームとなる。

 また、この時期には社会の各層にあった、読書を一種の悪徳とみなす慣習がうすれ、「私たちの人生にとって読書というのは基本的によい習慣なのだ」と考えられるようになった。大正期の日雇い労働者の読書を調査した東京市社会局の『日雇労働者の日記』が紹介されているが、彼らは図書館から本を借りて読んでいた。当時、東京市内の図書館では、夜間開館(夜9時まで)、館外貸出、無料原則で誰にも図書館を開放していたのである。

 電車の車内での読書が始まったのも震災後のことらしい。このころから読書のスピードも「おそ読み」から「早読み」に変化し、少ない本を繰り返し読む読み方から大量生産された本をできるだけ多く読む読み方へ変わっていった。

 打ち続く戦争によって1945年には878点(658点とも)に激減した出版点数も、48年に2万点台に回復、82年には3万点を超え、2010年以降は8万点前後で推移している。著者は1950年代から80年代初めを「読書の黄金時代」の頂点と見ているが、1979年には雑誌の売上高が書籍を超え、書籍の売上高は97年の1兆1062億円を頂点にして低落傾向が続いている。「読書の黄金時代」は終わったのだ。

 あまり記録の残されていないらしい「読書」についてここまで掘り起こすこと自体、相当の力技だったと思う。著者のいう「見知らぬ他人たちとともに読んでいる」との20世紀の読書意識は、私にはもうひとつぴんとこなかったが、意識に上っていないだけなのだろうか。

 ただ、ベストセラーの本を読む読者の心性にはそうした一体感が潜んでいるのかもしれない。確かに、多くの人が同じ本を「黙って一人で読んでいる」のが今日の読書のスタイルではあるだろう。読書そのものについて、いろいろな角度から考えさせてくれる本である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。