2025年、「超高齢社会」の中で
2016年12月05日
大阪万博2025の描き出す夢とは?(上)――1970年万博が果たした「転換点」の意味から考える
60年代後半まで、「戦後ナショナリズム」は効力を保持していた。ただし、その発現形態はますます捻じれて分かりにくいものになっていった。
その背景には、ベトナム反戦運動や文化大革命などの世界的な反体制の潮流があり、国内各地で発生した公害問題がある。特に水俣病に代表される汚染された自然のイメージが、人々に与えたインパクトはきわめて大きい。
60年代後半の社会運動や対抗文化が――「艶歌」や「任侠」の世界へのシンパシーからも明らかなように――「土着」や「情念」に近づいていったのは、「戦後ナショナリズム」を通り越して、日本的ナショナリズムの基底にある自然観へ立ち戻っていったからである。鋭敏な三島由紀夫が全共闘運動に強い関心を持ったのは、ここに理由がある。
こうした事情から、恐らく為政者は、「戦後ナショナリズム」を使いにくい道具だと思いなすようになっていったのではないか。思っていたより賞味期限が短かったと言うべきかもしれない。若者たちの異議申し立ては、「戦後民主主義」の擬制を最大の標的にしながら、実は「戦後ナショナリズム」の息の根を止める行動であり、その効果は予想をはるかに上回ったのである。
「闘争」の「敗北」に、後に生じた空虚感(「シラケ」)がその絶息をさらに加速したことはいうまでもない。私の実感でいえば、1969年で確かに終了したものがあった。その残響は72年あたりまで続いたが、もはや幽(かそけ)き呻(うめ)きのようなものにすぎなかった。
つまり1970年代とは、「戦後ナショナリズム」に代わるものが求められ、浮上した時代である。頂点の為政者がそこまで予測していたか定かではないが、若手官僚たちは変化を感じていた可能性がある。大阪万博は転換期に巡り合わせることによって、人々の意識が次に向かう方向を指し示す役割を担うことになった。
そのキーワードは「未来」だった。
大阪万博のメインテーマは「人類の進歩と調和」である。当時から「進歩と調和」には、本質的な矛盾があると指摘されていた。進歩をもたらす技術は人間界や自然界の調和を破壊するにちがいない。もしこの両概念をむりやり共存させようとするなら、「未来」(そのうちいつか)という責任の取りようがない時空を設けるしかない。ひょっとすると「未来」では、「人類の進歩と調和」の矛盾を解く魔法が発明されているかもしれないのだ!
かくてメインテーマにかたちを与える空間開発方針は「未来都市」と定義された。
大阪万博の誘致が決まった60年代半ば、万博の時代はすでに終わったという認識があった。実際、万国博覧会協会は各国政府機関や企業の出展募集に苦労した。「人類の進歩と調和」にこぎつけたテーマ委員会の議論もどこかとりとめのないものだった。古典的な国威の発揚(帝国主義のプロパガンダ)でもなく、モントリオール万博(1967)の「人間とその世界」という抽象的なヒューマニズムでもない、いわば参加型のコンセプトがぜひとも必要だったのである。
その意味で、まだ誰にも占有されていない「未来」は恰好のキーワードに見えたのだろう。「未来都市」を仮構するために、多くの奇怪かつ奇矯な構築物が千里丘陵の麓に出現した。太陽の塔とともに、あの「未来」の建築群がつくり出した前代未聞の空間は、良くも悪くも、我々の共通の記憶遺産である。
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