やらねばならぬことが山ほどあるこの国で
2016年12月05日
1970年に開かれた大阪万博のことならよく憶えている。
といってもこの目で見てきたわけではない。むしろ行かなかったこと、いや、行けなかったことで、記憶がより濃厚になっている。
ほぼ半世紀を経たいま隔世の感があるのは、当時は1日がかりだった大阪への旅が、いまでは4時間強に縮まっていることだ。ここ3年ほど毎週金曜と土曜に伊那から大阪と奈良の大学に教えに行っているのだが、そんなことが可能なのも交通アクセスの格段の発達によるのだろう。
そして今年の夏、ひょんなことから田畑書店という小さな出版社を継ぐことになり、週の半分を東京で過ごさねばならず、直線だった往復のコースに東京が加わって生活が劇的に変わった。
会社の経営など初めてのことで、東京にいるうちはオチオチ寝てもいられず、朝は始発かそれに近い電車で出社する。そんな早い電車に乗るのは東京で勤め人をしていた時にもなく、そもそも通勤電車に乗ることさえずいぶんと久しぶりで、知らず車内をきょろきょろと眺め回して乗客を観察してしまう。
その時間帯でまず多いのは、キャップを被りバックパックを抱えてぐったりと座っている老齢の男たちである。おそらくは工事現場の交通整理などの仕事に就いているのだろう。その種の肉体労働には年齢制限がないと聞く。
みな疲れきってどす黒い顔色をしている。彼らだけでなく若いサラリーマンにしても疲れきっているのは同様で、仕事で徹夜明けかあるいは朝まで飲みあかしたであろう青年が、降りようと席を立った瞬間、ばたりと倒れ意識を失ったところに何度か遭遇した。
そんな光景に触れるにつけ、つい口をついて出てくるのは「イタいなあ」という言葉である。
もちろん、その「イタさ」は大阪とて変わらない。ただ、東京の光景が沈黙のうちにあるのに比べて、大阪のそれにはポリフォニーが、そう、大阪弁がふんだんに加わっている。しかしその大阪弁も決して陽性のものではなく、やるかたなき憤懣に満ちた陰湿さを伴っている。
日常的に広い範囲をぐるぐると回っていると、その手の「イタい」光景に実に至るところで出くわす。
たとえばある日……奈良でいつも使う大学行きのバスに、ひとりの老婆が乗ってきた。運賃前払いのバスである。「どこどこまでいくら?」と運転手に訊いたところ、区間料金を間違えたのか、「え!」と大きな声を上げて掌に握りしめた硬貨を一瞬じっと見つめ、「そならもうええわ、こんなバス、二度と乗らん!」と捨て台詞を吐いて降りて行った。きっと想定していたバス代を残してなけなしのお金を使い切ってしまったのに違いなかった。
また別の日、長野は木曽福島の駅でのこと。寒風吹きすさぶホームの中ほどに小さな待合室がある。古いサッシの引き戸で暖房もないのだが、風が避けられるだけありがたく、電車を待つ人々にとっては重宝しているのだ。
そこに座っていた男、おそらくは出張でやって来たサラリーマンだろう。それも部長クラスと見たが、電車がくる時間が近づいたのか、その男がベンチから立ち上がり、引き戸を乱暴に開けて尊大なそぶりで出て行った。もちろん自動ドアでないのは百も承知。一気に温度が下がった待合室で、腰の曲がったおばあちゃんが静かに立ち上がり、黙って戸を閉めるのだった。
もちろん男は振り返りもしない。サイコパスという言葉さえ浮かぶ、周囲の状況を一顧だにしないその振る舞いが、なぜかいま政権与党側にいる政治家の姿とダブった。
また、学生の生きづらさも想像をはるかに超える。大体が精神を病んでいる学生のなんと多いことか。奨学金返済を抱えた上の将来への不安もあるだろう。時間当たりで計算すれば時給よりはるかに高い授業料を棒に振って、アルバイトにいそしむ。別に働きたくて働いているわけではないだろう。生活費も必要だろうが、聞けばおよそ人の良い彼らには断れないような拘束の仕方で、酷い働かせ方をされている。
そこで今回の2025年大阪万博誘致の話である。
これが東京オリンピックと同様、あるいはそれ以上にある目論見の上に仕組まれていることは確かで、かつ両者の根本には「国威発揚」という観念がある。
奇しくも朝のNHKのある番組で、アナウンサーが「五輪開催5つのメリット」のうち一つが「国威発揚」である、と言ってしまって大顰蹙(ひんしゅく)を浴びたことがあったが、
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