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必見! 『ヨーロッパ一九五一年』(中)

ジル・ドゥルーズの解読への疑問など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 前回述べたように、『ヨーロッパ一九五一年』のブルジョワ婦人、アイリーン/イングリッド・バーグマンは、息子の死がもたらした罪責感によって抑うつ状態になるが、ある日工場や貧民街を訪れ、かつてないショックを受け、やがてそのショック(インプットされたもの)が、彼女の中で神秘的な啓示/覚醒として顕在化し(アウトプットされ)、彼女を貧民救済に向かわせる。だが周囲の人間たちは、アイリーンの言動を理解できず、彼女を精神科病院に閉じ込めてしまう。

シネマ2 * 時間イメージ ジル・ドゥルーズ著拡大ジル・ドゥルーズ著『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局) 

ドゥルーズの考察

 哲学者のジル・ドゥルーズは、かの難解な大著『シネマ』第2巻、『シネマ2*時間イメージ』(宇野邦一・他訳、法政大学出版局、2006)の第1章で、『ヨーロッパ一九五一年』におけるアイリーンの言動を分析している。

 以下、ざっくりとドゥルーズの考察を縮約しつつ、若干の反論(というか疑問)を呈してみたい。

 ――ドゥルーズによれば、古典映画の登場人物は、ある出来事(作用)に対する反作用として行動を起こす(ドゥルーズはこうしたドラマのあり方を――ややわかりにくい用語だが――「行動イメージ」と呼ぶ)。

 「〔古典映画の〕登場人物たちは、状況に反応していたのであ〔り〕、登場人物のあるものがほとんど無力に陥ったとしても、それは行動上の偶発事のせいで、束縛され沈黙させられていたせいにすぎない。観客が知覚していたものは、それゆえに感覚行動的イメージであって、観客は、登場人物と一体化することで、多かれ少なかれそれに参加していた」(4頁)。

 いっぽう、『ヨーロッパ一九五一年』のアイリーンは、出来事・状況に対して一切反応すること(行動すること)ができずに、ただひたすら「見る人」であることを強いられている、とドゥルーズは言い、そこに古典的な「行動イメージ」とは対照的な、現代映画を特徴づける「時間イメージ」の原形を見て取る。

 ドゥルーズの言う「時間イメージ」とはつまり、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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