2016年12月16日
本稿で私が特に問題にしたいのは、むしろ、ノーベル賞の出自についてである。
はっきり言って、ノーベルは「死の商人」である(次回詳論する)。死の商人がその営みによって作った財産を元手にした賞などが、本当にあってよいのだろうか。特に「ノーベル平和賞」は大きな矛盾をかかえている。
ディランの沈黙に対する文学賞選考委員長の苦言は、この問題を考えるのによい機会を提供してくれた。
私ははっきり言って、同委員長の苦言はお門違いだったと思う。結果的にディランが受け入れたとはいえ、受賞したと報道された側が、授賞すると決めた相手に対して反応する義務など、本来ない。
他者から何か働きかけがあった時、一般市民としてそれに対応できた方がもちろんよい。処世訓としては確かにそうである。だが、それに応答する義務はない。まして一方的に働きかけた側が、反応がないからと相手を「傲慢・不遜だ」と責める権利があるだろうか。
発言からは、選考委員長が、ノーベル賞がいかに権威のある賞であるかを自ら理解し、かつ「それを名誉にも授与したのに……」とでもいった、ある種のおごりを感じさせる。かつてノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏も言うように、ノーベル委員会は、非常に権威主義的であり横柄である。益川氏はそれに「カチンと来(た)」と記しているが(益川『科学者は戦争で何をしたか』集英社新書、12頁)、今回はその横柄・おごりが、あからさまに出た。
例えば、誰にも知られない、無名の市民たちが細々と運営する団体が、「何々賞を授賞します」と連絡してきたとしよう。そうしたら、「この賞はいったいなに?」といぶかしく思って反応しない人は、きっといるに違いない。特に賞の名前に人名がついており、その当事者が何らかの意味で「いかがわしい」人物だった場合、おのずからそうした反応を引き起こす可能性が高い。
だが、ノーベル賞はそれとは根本的に違うと、選考委員長は信じきっているのであろう。そうでなければ、自分たちが一方的に授賞することにした相手に対し、反応しないのは「傲慢不遜」だなどという評価ができるとは私には思えない。
だが、そうしたそれ自体傲慢不遜な評価を下すのではなく、むしろ、なぜ相手がこちらの授賞を無視するのか、自らの側になにか問題があるのではないか、あるとしたらそれはいったい何なのか、選考の問題か選考における評価の問題か、あるいは賞自体の問題か等と反省してみるのが、選考委員に課せられた責務だったのではないだろうか。
自分たちの営為に向けられたある種の批判――ディランにそれがあるのではないかと、当初思われたようである――に、なんら目が向かないとは遺憾である。選考に誤りが入ることはあるだろう。だが選考して授賞する営み自体は無謬だと、同委員長は信じこんでいるようである。
当初からディランの真意が何かは憶測を呼んだが、事情はよく分からなかったようである。だがディランが、
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