斎藤貴男 著
2016年12月23日
インターネットを眺めていると、この国の権力がやることに対して批判を展開する人は「反日勢力」の一味らしいです。そういう考えに従うなら、斎藤貴男さんは反日勢力の最たるものになるのでしょう。
なにしろ、監視社会の到来にも、消費税のインチキにも、格差の拡大にも、石原慎太郎さんの適当すぎる言動にだって、みんなが問題だと気付くよりかなり前の段階から、厳しい批判を重ねてきたジャーナリストですから。
その批判も、丁寧な取材と調査に基づいて、権力を持つ人たちの急所を突く形で展開してきたわけで、そりゃ反日勢力のレッテルを貼りたくなる人の気持ちもわかってしまうというものです。
でもこの斎藤さんという人、長いこと組織に属さずに書き続けています。なので、ちょっと「勢力」と呼ぶには無理があるような気がします。
実際、斎藤さんの議論にはいつも「個」を大事にする考えが出てきます。私たちが常に自律した存在であり続けるにはどうすべきか。そんな問題意識が、斎藤さんの書く本には貫かれているような気がします。
著者の斎藤さんは、このエッセイ集で丹念に自分自身という「個」に向き合い、並行して日本社会が変質していく過程を書いています。要するに、自分史と戦後史(というか日本の劣化史)を同時に書いているわけです。
反骨のジャーナリストが描いた数十年、とかいうとどんな怖い本かしら、とも思ってしまいますが、そんなことはありません。斎藤さん本人と同じで、興味深いエピソード豊富で楽しく読めてしまいます。
そう、斎藤さん本人も楽しい人なのです。
一愛読者として抱いていた「斎藤貴男」の印象はとても怖い感じでした。だって本を読むと、携帯電話もICカードも持たない(利便性と引き替えに資本の監視に身を委ねることになるから)、チェーン店でメシを食わない(グローバル化に抵抗して頑張っている自営業を圧迫するから)、みたいな話が載っていたのですから。
でも意を決して原稿を依頼し、一緒に取材とかしてみると、本に書いてあるとおりでしたが、怖いことはありませんでした。
どういうことか。緊急の連絡は、私の携帯電話に普通にかけてくれます。「まあ携帯は便利だしねえ」というわけです。でも自分が今さら携帯を持つと、家族に浮気を疑われてしまう……と嘆いておられました。
駅の改札で、自販機で切符を買っている斎藤さんを置き去りにしてICカードで入っていっても怒りません。「だって、それぞれの人の選択だものね」だそうです。自分と違う選択をする「個」も尊重するわけです。
飲みに行ってもう1軒、というときに「カラオケに行こう」となる。でも街にはチェーン店しかない……。すると某大手カラオケチェーン店に会員証を出して連れていってくれました。たしか会員証は「妻のだよ」とおっしゃってた気がしますが。
カラオケでも、楽しくマイクの取り合いをさせていただきました。私からマイクを奪った斎藤さんは、実にうまく『そんな女のひとりごと』『虹と雪のバラード』などを歌い上げます。そうそう、本書に出てくる『池袋の夜』の熱唱も素晴らしいものでした。
で歌ったあと、それぞれの曲にからんで話してくれる昭和時代のエピソードも興味深いものばかり。スナックで飲み歩くのはなぜ男の憧れだったか、札幌五輪にどうしてみんな熱狂したか、お父様が営んでいた鉄屑屋など自営業の密集した池袋がどれだけ豊かな街だったか……。
そのあと何度お酒をご一緒しても、大上段なお説教を聞いたことはありません。私が漫画と広島カープ以外に趣味がないことを知ると、いつもその話に付き合ってくれるようになりました。斎藤さんも少年漫画と近鉄バファローズが大好きだったというわけで、話が尽きることはありません。
ちなみにこの本にも書かれていますが、斎藤さんの少年漫画愛の強さは本物であります。なにしろ、同じような名前の漫画家の某先生が描いた「斎藤貴男さんへ さいとう・たかを」とあるサイン色紙を宝物としているくらいですから(バラしてすみません)。
……書評のはずが、斎藤さんが楽しい御仁であると繰り返すだけの原稿になってしまいました。でも、権威に寄りかかってタテマエ論ばかり語る人と酒を飲んだって、つまらないではないですか。斎藤さんは本当にいつもその逆なのですね。つまるところ、自分であっても目の前のオッサンであっても、やっぱり「個」を尊重する。だから酒席も何だか人間らしく楽しくなるのです。
要するに何が言いたいかというと、この本『失われたもの』は、その斎藤さんの酒席の楽しさが十二分に反映されてます、という話です。失われない「個」の力を堪能できるエッセイ集、絶品の好著でございますよ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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