べッセル・ヴァン・デア・コーク 著 柴田裕之 訳
2017年01月10日
ある女性が水の入ったコップをひっくり返した。それを見て近くにいた男性が立ち上がり、ティッシュの箱をもって「拭いてあげよう」と声をかけた。すると彼女は、またたく間に強烈なパニックに陥った。なぜか。それは幼少期に、女性の父親が彼女をレイプしたあとによく言った言葉だったからだ。これがトラウマ体験の「フラッシュバック」と呼ばれるものである。
『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』(べッセル・ヴァン・デア・コーク 著 柴田裕之 訳 紀伊國屋書店)
そして、このような経験は、現代においてはなんら特殊なものではない。ある研究によると、アメリカ人の5人に1人が子どものときに性的虐待を受け、4人に1人が体に痕(あと)が残るほど親に殴打され、3組に1組のカップルの間で身体的暴力が発生するという。さらに、4人に1人がアルコール依存症の親族のいる家庭で育ち、8人に1人が母親が殴打されるのを目撃している。
すなわちトラウマは、「私たちにも、家族にも、友人にも、近所の人にも降りかかる」。もはやトラウマを戦争帰還兵やテロの犠牲者、あるいは悲惨な事故の生存者だけの問題と捉えることはできない。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」。
本書は、人がトラウマ体験にどう対処し、その体験をどう生き延び、どう回復するかを、豊富な臨床経験と研究により克明に語っているが、まず驚かされるのは、トラウマが人間の脳の働きをそれ以前の状態と異なるものに変えてしまうということだ。
たとえば、フラッシュバックが引き起こされたときの脳の画像を観察すると、情動をつかさどる大脳辺縁系と視覚野が活性化する一方で、言語中枢(ブローカ野)の活動がいちじるしく減少していることがわかる。ブローカ野の活動停止は、しばしば脳卒中患者に見られるが、言い換えれば、トラウマの影響は、脳卒中のような身体的損傷と必ずしも違わないということになる。本書が「身体はトラウマを記録する」というゆえんだ。しかし、それにしても、これは慄然とすべきことではないだろうか。
つまり、「トラウマ後」を生きる者は、世界をこれまでとは異なる神経系で経験する。彼らのエネルギーは、人生における自発的なかかわりを犠牲にして、内部の混乱を鎮めることに注がれるようになる。耐えがたい生理的反応に対する主導権を維持しようとすると、筋肉痛や慢性疲労、その他の自己免疫疾患など、多種多様な身体症状を引き起こしうる。今や彼らの敵は、加害者ではなく、自分の身体的感覚なのだ。
トラウマ患者が過去へと引き戻され続けているかぎり、セラピーには効果がない。第一に必要なのは、脳の組織がかつての働きを取り戻すように支援し、患者がみずからの内部感覚や情動の主導権の獲得の仕方を学ぶことである。
このための手法として、自分に手紙を書くという自由筆記法、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)、ヨーガ、内的家族システム療法(多重人格に対する統合療法)、PBSP療法(簡潔に説明できないが一種のグループ精神療法であり、これにはとりわけ興味をそそられた)、ニューロフィードバック(電極を用いた脳反応の正常化)、演劇や声劇などが取り上げられているが、本書が伝えるその効果には目をみはらざるをえない。
いずれの手法でも、患者たちは自分の身体的感覚の主導権を掌握することに成功すると、過去と現在とを区別し「今」を生きることができるようになった。そして重要なのは、そのときにはつねに、安心、信頼、愛情が確保されていたということである。
起こってしまったことを、なかったことにはできない。だが、対処できるものはある。それは、トラウマが体と心と魂に残した痕跡だ、と著者はいう。「トラウマに対処するというのは、損なわれたものに取り組むことだけではなく、どのように生き延びたかを思い出すことでもある」。
本書を読んで思うのは、ある意味では、トラウマほど人間がいかなる存在であるかを教えてくれるものはないかもしれない、ということだ。「トラウマは私たちの脆さや、人間に対する人間の残酷さを絶えず突きつけてくるが、それと同時に、私たちの途方もないレジリエンス[回復力]も見せつけてくれる」。
人間は、それがどんなに深いものであっても、みずからの傷を癒やし、新しい一歩を力強く踏み出すことができる。ただ、そのときには、情動に同調してくれる他者という存在が不可欠なのである。これ以上、人間的なことがあるだろうか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください