山本雄二 著
2017年01月10日
いきなり言い訳めくが、僕はこのブルマーなる体操着そのものに惹かれたことはまったくない。……いや、ないのだが、70年代、何かと目覚めてきた中学生時分、体育の時間となると、ブルマー姿に、あやしげなまなざしを向けたりドギマギしたことがあったことは認める。そんな男子たちの視線を感じていたのだろう、当時中高生だったまわりの女性に聞いてみたが、「あんな下着みたいなものを着るのは恥ずかしくて嫌だった」という答えが大半だった。
もちろん、大人になってブルマーのことなど、すっかり忘れていたのだが、90年代にほとんどの学校体育の場から消えていったことを本書で知った。
『ブルマーの謎——<女子の身体>と戦後日本』(山本雄二 著 青弓社)
そして、その謎解きとともに、あやしげな体操着から学校教育のありようがクリアに浮かび上がってくる。アホな中学生の時には、ブルマーにこんな社会的含意があったとは露知らず……。
著者は関西大学の社会学者。ブルマー導入の経緯を調べようにも資料は少なく、近隣の教育委員会に問い合わせの電話をすると、あからさまに不審がられて電話を切られることもあったらしい。それでもめげずに、些細な(失礼!)テーマをしつこく調べるのはいかにも関西の研究者らしい。
さて、ブルマーめいたものが日本に導入されたのは明治後半(この頃は太もも周辺がふくらんでいる「ちょうちんブルマー」)、以後、洋装や和装の下に身に着けることが奨励されもした。だがそれは、子供を産む女性は腹や腰を冷やしてはいけない、つまり「民族増強」のための母体を守るという理由だった。ブルマーをはくのは国家を支えることだったのだ。
こうした「(ズロースとブルマーの)パンツ二枚ばき国家」を経て、戦後、太ももが露わになり身体にぴったりした「密着型ブルマー」が導入されたのは60年代半ば。もともと当時の文部省は、体操着でからだの線が出ないよう指示していたのだが、なぜあのように露出度の高いデザインになったのか。
僕は、64年東京五輪、女子バレーボールのソ連のユニフォームの影響があったのではないかと予想しつつ読んでいたのだが、実際は(2016年に亡くなった)チャスラフスカ(チェコスロバキア)など体操選手の美しいレオタード姿の影響が大きいという。テレビ実況の普及と、美と健康が結びつき、日本人の女性への身体観、体操着への認識を変えたというのだ。こうした身体観の変化は、のちのミニスカートの隆盛にもつながるという仮説も出される。
デザインに抵抗感がなくなった社会を背景に、メーカーと学校組織、体育関係者によってブルマーは導入されていく。だが、肝心の生徒には、「カッコよさと恥ずかしさ」というアンビバレントの感情が共存したりしつつも、否定的な声が圧倒していたという。
一方で、その恥ずかしがる姿は、教育関係者の「道徳派」からは女子の可憐さ、清純さの象徴として見なされるようにもなったらしい。このあたり、制服や髪形などに関する校則もそうだが、あり得べき女子生徒像(幻影)を描く「道徳派(婦徳派)」の方々の感性には驚かされる。
美と健康、可憐さと清純さ、という二つの「まなざし」でブルマーは支えられていたが、1989年から「セクハラ」という「第三のまなざし」が現れる(問題になったブルセラショップなどはブルマー消滅の大きな契機にはなり得なかったという)。「ブルマーの強制はセクハラだ」という批判が高まり、ここでようやく、そして急速に学校現場から消えていく。それに拍車をかけたのはサッカーやアメリカのプロバスケットボールのだぼだぼしたパンツの流行だった。学校関係者の「まなざし/幻想」は第三者の視線とカッコよさに勝てなかったということだろう。
いまやブルマーは、防寒着だったり、チアガールのスカートの下にはくものだったり、“表舞台"からはほとんど消えた。こうしてブルマーの誕生から隆盛、撤収のいきさつを見ていくと、校則に表れる道徳律の押しつけ、過剰な部活動、社会問題化した「組体操」や体罰などなど、いまの教育が抱える問題の構造が透けて見えてくる。「真実は細部に宿る」という著者の言葉が説得力をもつ。ブルマーの謎は、学校の謎でもあるのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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