「お任せ民主主義」を超えて
2016年12月27日
今年6月、人文書院から『書店と民主主義――言論のアリーナのために』を上梓させていただいた。人文書院のHPの連載コラム「本屋とコンピュータ」からピックアップした文章を中心に、ぼくがここ1~2年のうちに書いたものを編んだ本だが、自店で行った「反ヘイト本」フェアやMARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店での「自由と民主主義を考える50冊」フェアへのクレーム、攻撃が重要なトピックスになっており、勢い民主主義を論じる文章が多くの部分を占めている。
ぼくは、高橋源一郎の「民主主義とは、たくさんの、異なった意見や感覚や習慣を持った人たちが、一つの場所で一緒になっていくためのシステム」という定義(『ぼくらの民主主義なんだぜ』朝日新聞出版)に依拠し、民主主義とは、誰もが自分の意見を持ち、表明することを保障されるということ、そして他の人が意見を持ち表明することを、それがたとえ自らの意見と正反対のものであっても尊重する姿勢だと考え、それゆえ「民主主義」は、誰しも自由に意見を表明することができる書物と、それぞれ意見を異にする書物が並ぶ書店を要請するのだ、と論じた(丸善ジュンク堂PR誌『書標』2016年7月号「著書を語る」)。
その時書店は、意見と意見が激しくぶつかり合う議論の場=「言論のアリーナ」であるべきなのだ。
だから、民主主義における対話の重要性を説いた『人をつなぐ対話の技術』(山口裕之著、日本実業出版社)を、とても共感しながら読んだ。
民主主義とは、多数決ではない、と山口は言う。多数決は、しばしば「多数派の専制」を結果し、それは民主主義とは真逆であるからだ。政治は「数の論理」に従うと考えるのは大きな間違いである。ぼくたちの一票は、党派の数の争いのためにではなく、妥当な結論を見つけ出すべく対話を行う代表の選出のためにある。
選んでしまった後は対話を議員に任せてしまうのも、民主主義ではない。主権者であるぼくたち同士が対話を行い続けることが、民主主義の種子であり、滋養である。民主主義とは「利害が異なる人々が合意すること」であり、対話こそ「立場や意見を異にする人と話しあい、互いに納得できる合意点を見つけること」だからである。
あらかじめ皆が合意している「正義」は、民主主義とは概ね無関係だ。世の中には、「正義」の名のもとの暴力が横行している。正しさは第一原理から演繹されるようなものではなく、対話によって生み出されるものなのだ。
対話を通して他者の情況、他者の意見を知り、自らの意見を鍛え、時に変えていく。そうした一人ひとりの成長によってしか、民主主義はありえない。それは「大変に骨の折れること」であり、「民主主義とはすべての市民が賢くなければならないという、無茶苦茶を要求する制度」だ。
民主主義はその「無茶苦茶」に挑戦する姿勢を言い、「対話の技術」は「対話の困難」から逃げない覚悟そのものなのである。
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