人文書を売り続ける覚悟
2017年01月16日
岩波ブックセンター/信山社の「敗北」に思う――柴田信さんの死……ぼくたちは迂闊だったのではないか?
日本を代表する出版社の一つである岩波書店は、1913年8月、古本を中心に新刊書と雑誌も扱う書籍商として開店した書店であった。出版業を開始するのは、漱石の『こころ』を刊行した翌14年9月である。
1959年、岩波書店は小売部を閉鎖、書店部門は、元々岩波書店の保険関連業務などを請け負うために設立された信山社が、岩波書店から店舗を借り受けるかたちで営業を継続した。そこへ、1978年4月、芳林堂書店店長を辞したばかりの柴田信さんが入社する。信山社は、柴田さんの再就職先だったのだ。
5年後の1983年、柴田さんは社長に就任。その時点では岩波書店が株式のほとんどを保有し、資金繰りも管理、柴田さんの社長業は主に労務管理だったという。
80年代、90年代には売上好調の年も多かったが、積年の赤字体質は解消されず、ついに2000年、岩波書店は信山社の清算を決定する。2000年12月、柴田さんは、旧信山社の消滅に合わせて、資本金300万円の「有限会社 信山社」を立ち上げた。
この時すでに70歳、一度は自らも引退を考えたという柴田さんが、万年赤字体質の岩波ブックセンター信山社を引き受けたのは、何故か?
学生アルバイト時代から真摯な姿勢で仕事を続けてきた社員の白井潤子に「この店で仕事を続けたい?」と聞いた時、彼女が躊躇なく「続けたい」と答えたこと、柴田さん自身、神保町にはこの店が必要だという強い気持ちを持っていたこと、石橋毅史はこの2つの理由を伝えている。
この一見素朴な理由に、ぼくは柴田さんの51年の書店人生を支えた最大のモチベーションを見る。それは、本を売るという生業には、人が大事、店が大事という信念である。
芳林堂時代に「単品管理」の徹底で名を成し、店舗運営のためにさまざまな工夫を続けてきた柴田さんだが、決してシステムによって書店が成り立つと考えたことは無い。大切なのは、そこで働く人であり、書店が人を育てる場であることなのだ。
「生徒だろうとバイトだろうと、私が育てるわけじゃないんだよ。でも、人が育っていく環境にしておくことは大事だと思ってるんです」
因みに、柴田さんが最初に選んだ職業は、
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