物としての「本」を考える
2017年01月16日
岩波ブックセンター(東京・神田神保町)が閉店したという報に触れたのは、昨年(2016年)11月も終わり頃だった。もうふた月近くも前の話で、しかも年末年始を挟んでもいるので、怒濤のごとく溢れるニュースに埋もれる日常にあっては、もはや旧聞に属することかもしれない。
この間、案の定、各方面から驚きや憶測も交えたさまざまな声が聞こえてきた。いわく、岩波文化の凋落のあらわれだの、本の街から灯が消えただの……。
もちろん、そういう側面があることは否めない。神保町に行けば必ず覗いていた書店がなくなってしまうのは寂しいし、すでに資本関係はなくなっていたにせよ、自社の名を冠した書店の倒産に、大元の岩波書店に何がしかの責任がないはずもない。
けれども、会社というのは潰れるものである。それに、全国的に激しい勢いで書店が消えていく昨今、一書店が店仕舞いすることはさほど珍しくもないかもしれないし、その固有の事情をあれこれ詮索してまことしやかに語る資格は当方にない。
ただ、年末の慌ただしいなか、職場からそう遠くない神保町を歩いていて、ふと岩波ブックセンターの前で足を止め、閉店を告げる貼り紙と〈書物復権〉という色褪せたポスターを前にしたときに覚えた形容しがたい感情は何だったのか。おそらくそれは無常観とも違う、得体の知れない激流に刻々と足元の土を奪われていく、小さな中洲に立ち尽くしたような感覚に近い。
われわれがいま失いつつあるのは、個々の書店ではない。書棚の前で新刊をどきどきして手にし、あるいは思いもよらない掘り出し物に出会って歓喜し、そのカバーや表紙の感触からページのしなり方まで味わった上で、それに大枚をはたくかどうかを迷い、意を決してレジに持っていくという行為そのものなのではなかろうか。
さらに言えば失いつつあるのは、そうやって手に入れた本を咀嚼し、体に取り入れることで、ある地点に到達できるという価値観。本を読むことで得る「知識」というものに対する信頼ではないか。
……とは我ながら飛躍が過ぎないかとも思うが、現在進行形で起こっている事象をつらつら眺めるに、あながちそうでもないとの思いも強い。
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