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[書評]『村上陽一郎の科学論』

柿原泰 加藤茂生 川田勝 編 村上陽一郎 小松美彦 野家啓一ほか 著

今野哲男 編集者・ライター

よき「専門性」に欠かせない「アマチュアリズム」という志  

 『専門家は保守的だ』(1964年)という本があった。日本のビート詩人・片桐ユズルの若き日の詩集である。専門家という種族にありがちな負の属性を真っ向から批判した、この若々しく反逆的な啖呵に、得も言われぬ共感を感じていた半世紀前ほど前。その専門性が最も高いと思い込まされていた「科学」の分野の内側から、「科学史・科学哲学」という聞き慣れぬ名と共に、『日本近代科学の歩み――西欧と日本の接点』(1968年刊)と『西欧近代科学――その自然観の歴史と構造』(1971年刊)という2本の矢を携え、静かな口調で、地味ながら颯爽と登場してきたのが、村上陽一郎だった。

 被爆の傷がまだ生々しく、イタイイタイ病や水俣病あるいは新潟水俣病といった公害がただならぬ問題として露出しはじめ、それにラディカルな異を唱える、いわゆる新左翼のイデオロギッシュな叫び声がこだまする中で、従来のアカデミズムの権威主義だけでなく、それに反逆するイデオロギーの枠までも軽やかに踏み超えていく――若き日の村上は、あの片桐ユズルのビートニックな感性にも通底する、社会に開かれた「アマチュアリズム」というにふさわしい、門外漢でも臆さずに近づくことのできる、しなやかな体幹を持っていた。

 本書は、そんなデビュー以来、ほぼ50年の長きにわたり、科学論の幅広い分野で、基礎的な議論だけではなく、その時々の見逃せないトピックについても、刺激的な議論を展開し主導してきた村上の足跡を検証し、批判的に継承しようと画策されている。村上本人と編者2名を含めて、アマチュアリズムの大切さを知るプロの専門家たち、都合13名の執筆による充実した論考集だ。

『村上陽一郎の科学論——批判と応答』(柿原泰 加藤茂生 川田勝 編 村上陽一郎 小松美彦 野家啓一ほか 著 新曜社) 定価:本体3900円+税『村上陽一郎の科学論――批判と応答』(柿原泰 加藤茂生 川田勝 編 村上陽一郎 小松美彦 野家啓一ほか 著 新曜社) 定価:本体3900円+税
 構成としては、編者の力の入った「序文」の後に、まず村上の「学問的自伝」と、編者による懇切な「主要著作紹介」――膨大な著作群の中から、村上の全体像をとらえるポイントになると思しき11点について、簡略に紹介したもの――を置き、その後に、村上の足跡を記した「村上科学論への誘い」3本と、本書の要である「村上科学論への批判」10本を配し、最後には、「批判に応えて」として、満を持したように再び本人が登場する。

 これに、「略歴・役職歴」「主要著作リスト」「事項・書名索引」「人名索引」といった充実した付物がつくのだから、まるで「大河ドラマ」を思わせる、贅沢な構成だと言っていい。

 村上の「アマチュアリズム」が、どう社会と切り結んでいるのかということは、たとえば論者の一人である小松美彦が自身の「村上医療論・生命論の奥義」の中で引用している村上本人の言葉、たとえば「一言で言ってしまえば、医師は現在では科学者になってしまったのではないか」(『生と死への眼差し』)とか、「医師が、患者の生を左右できると考えたり、自分にすべてを任せない患者は間違っていると考えるとすれば、それは、ここ一五〇年ほどの近代医療の『成功』なるものがもたらした傲慢の結果であろう」(斜体筆者、同)などから察することができると思う。

 小松は、村上がしばしば≪sympathy≫の元来の意味について言及している事実をあげて、彼の基本モチーフは「医師の役割は、患者の苦しみを単に技術的に癒すだけではなく、その苦しみを『共にする(syn)』ことだ」と喝破する点にあったと言う。

 そして、その延長上で、村上が医療を語る際によく使う「人格と人格が切り結ぶ医師―患者関係」というキーワードについて言及する。そして、このキーワードには、医療技術のアマチュアである患者とつきあう医師には、患者の「苦しみ」を「共にする(syn)」ために、プロの技術に加えてアマチュアと同等の視線を持たなければならないという含意があることを指摘する。つまり、これが若くして登場した村上が持っていた、社会に開かれたしなやかさ、つまり「アマチュアリズム」と通底しているように思うのだ(小松は、このほかに彼のキリスト者としてのカソリックの人間観にも言及しているが)。

 「堕胎」「脳死・臓器移植」「遺伝子操作」「出生前診断」そして「安全学」と、次々に現れてくる身近な現代の「科学」の問題に直面するわれわれ一般人にとって、そんな村上陽一郎的な視線は言い尽くせないほどに大事であり、それはこれからも変わることはないだろう。本書はそのことを、13名の執筆者のそれぞれが、批判を忘れない様々な入射角を持つ論考によってつぶさに検討し、そして論証した一冊であると言えよう。

 読んでいて、「わかった」とか「わかりやすい」と感じたのは、理路の向うにある「存在」や「時間」や「場所」への眼差し、あるいは「関係性」や「孤独」に関する思惟が、村上はもちろん、少なからぬほかの多くの筆者たちの息遣いにも感じられたからだと思う。その意味で本書には、ロジックのみをあやつる現代のパリサイの徒たちを、あざやかに論破する豊かなレトリックに満ちている。その一例として、最後に、小松が「『啓蒙』をめぐる村上の枯淡な言説」として、「村上医療論・生命論の奥義」の最後に挙げた以下の言葉を、彼に倣って紹介しておこう。

 本当に伝えられなければならいことは、なかなか伝わりません。日本では「啓蒙的」な立場というのは軽く見られがちで、とくに専門家にとっては「片手間」のように考えられることが多いのですが、実は独特の才能とセンス、それに大きな努力と叡智が必要とされるのが「啓蒙」なのです(『生命を語る視座――先端医療が問いかけること』、2002年)。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。