2017年01月30日
映画『晩春』を注意深く、丁寧に繰り返し見てくると、この作品の悲劇的、神話的主題が、原節子と父親の助手を務め、原がひそかに心を寄せる宇佐美淳との擬似恋愛的男女の対関係性、原節子と原節子の見合い話を、性急に進めようとする叔母の杉村春子との世俗的血縁関係性、そして原の女学校時代の同級生で、離婚体験を持つ友人の月丘夢路との結婚を巡る「負」の対的友情関係性という、三つの非神話的な世俗関係性のうえに、組み立てられていることが見えてくる。
では、その悲劇的、神話的主題は何かというと、一つは、結婚適齢期を過ぎかけているにもかかわらず、失われた自分の妻の役割を代行して自足している娘を、結婚という形で追放することで「殺そう」とする父親笠智衆の、動物的な種族保存本能に根差した「子殺し」の意志であり、もう一つは、自分を排除・追放し、「殺そう」としてくる父に対して、さらに一層擬似的な夫婦間の対的関係性の継続を求めることで、父親から発動してくる排除・追放の意志を封印してしまおうという、娘の側の「父殺し」の意志の働きである。
ただ、小津安二郎は、「子殺し」と「親殺し」という主題を『晩春』に持ち込むことにきわめて慎重であった。そのため、映画は前半において、原節子が自身の手で行わざるを得なかった「子殺し」、すなわち「紀子自身による紀子殺し」の悲劇を丁寧に描いたうえで、後半の冒頭に至って、杉村春子の家の茶の間において、杉村春子の口から、世間のどこにでもありそうな極めて世俗的な見合いの話が持ち出されてくるに至って、ようやく「父親による娘殺し」と「娘による父親殺し」という、聞くだけでもおぞましい映画の根本主題が立ち上がってくることになる。
今、その経緯をスクリーンの上の流れに沿って再現すると次のようになる。
巌本真理のバイオリン独奏会を聞きに行きませんかと、服部(宇佐美淳)に誘われ、一旦は断ったものの、「その気になったら聞きに来てください」とチケットまで渡され、原は、演奏会場まで足を運ぶ。しかし、「やはり(婚約者がいる服部と一緒に)聞いてはならない」という倫理意識が勝り、チケットを受付嬢に返し、一人北鎌倉の家に帰ってくる。そして、「ただ今」と玄関の戸を開ける原の声はいかにも力がなく、意気消沈したという感じで、原が宇佐美淳の誘いを断ったことで、失ったものの大きさを、見る者に感じ取らせる。
と、そこには、女学校時代の同級生で、「ケンちゃん」と呼ばれる男と早々と恋愛結婚しながら、離婚してしまったアヤ(月丘夢路)が、笠智衆と離婚を巡る話をして待っている。
原は、一気に元気を取り戻し、アヤと手を取り合って2階に上って行く。そして、紅茶を飲みながら、女学校時代の仲間の誰それは、すでに子供が3人もいるとか、誰それはすでに妊娠中で、今でいう「出来ちゃった婚」だとか、同窓会の話に夢中になり、ついさっき宇佐美の誘いを反古にして、帰ってきてしまったことによる心の痛手は、一気に消えてしまったかのようである。
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