渡辺京二 著
2017年02月09日
「自然は人間にとって資源である以前に、人間が人間として形成される場なのである」
書評紙という職場に在籍したことがあるという、ごく小さな共通点のみをきっかけに彼のことを知り、畏れながらも親しみを込めて、『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)や『江戸という幻景』(弦書房)、『もうひとつのこの世――石牟礼道子の宇宙』(弦書房)、『北一輝』(ちくま学芸文庫)やその他の新書・文庫の著作を読んできた。
そんな著者の仕事を一望できる『渡辺京二評論集成』全4巻(葦書房)が刊行を終えたのは2000年のことだが、すでに絶版だという。その『集成』第3巻『荒野に立つ虹』に、初刷りが品切れになるという『アーリイモダンの夢』(2008年)の諸論を併せ、今回新たに編まれたのが本書である。
世界史、近代、ポストモダンの問題と石牟礼道子作品がどうつながるのか、ヘーゲル、マルクス、パステルナーク、ソルジェニーツィンからイヴァン・イリイチの仕事への注目は何を意味するのか、日本の近世にどういう可能性を探ろうとしているのか、こうした問いに本書は深く応えるだろう。
そこで、改めて渡辺京二という書き手の世界観に触れた私自身に最も深く刻まれた一文が、冒頭のそれだった(本書69ページ)。当たり前なことだと感じる人もいるのかもしれない――「環境」とか「エコ」とか「アウトドア」とか、人が働きかけ守るべき対象、趣味の対象としてある自然は、現代人にとってはありふれているから。しかし著者がいう「自然」とは、「粗野な混沌」そのものの自然のことだ。
この一文が収められたエッセイ「山河にかたどられた人間」のなかで、いわゆる都会(北京と、日本の植民地当時の大連)育ちで「自然にもっともうとい人間」だと自覚する著者みずからが、「水に渇いたもののように自然との触れ合いを求め、自然についての新しい自覚を強いられる」と告白し、「それはいったいどういうことであるのか」と問う。さらに「多くの人びとは、人間の肉体は自然として承認しながらも、精神もまた自然の一分出型であるとは認めたがらない」とし、自然と対立するものとしての「意識のありよう」が形づくられてきた近代という姿の特異性へと読者の注意を向ける。
近代の特異性とは、西洋近代の特異性のことで、「世界史」において西洋近代の在り方がけっして当初から普遍性を備えていたわけではないことが、本書の第I部「現代文明」全般で力説される。すなわち、大量生産・大量消費活動、科学技術が徹底化、拡大化し、その力をそれら自体が制御・コントロールできなくなり、そうした展開の無限性、無限追求とも呼ぶべき現状をもたらしていることがどれだけ特異かを語るのだ。
結果、そのように特異な西洋近代の構築物――物理的にはたとえば巨大都市、観念的にはたとえば「個人」「人権」「自由」「民主主義」といった概念――が置き残し、捨ててきた最大のものが、大地と密着してある人間のありようであるという事実が浮上する。この事実と、西洋近代の特異性はパラレルにあることが、冒頭の一文の背景にはある。
大地に根ざした在り方を指す語「ヴァナキュラー」は、著者にとってキーワードとなる。ロシアの大地で「ヴァナキュラー」を志向し、「ヴァナキュラー」に意識的だった作家がパステルナークやソルジェニーツィンであり、著者が並々ならぬ関心を寄せるイヴァン・イリイチも石牟礼道子も動物行動学者ローレンツもみな、「ヴァナキュラー」の一語を体現しているのだ。
さらに彼らはみな、世界史的なものと一人の何でもない無名な存在者との関係を追い続けてきた著者にとって、「荒野」と表現される現代文明の先にある「虹」つまり希望となる。
自身の思想的・文学的遍歴を踏まえたうえで語られる本書の一語一語は、既成の学問・思想界のジャンルや枠組みを軽やかに超え、現代について考えようとする読者すべてに届く、そんな融通無碍さをそなえている。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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