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青山ミチは昭和歌謡のどこにいたのか?

彼女が育った横浜・山手を歩く

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役

忘れられた歌姫の死

 2017年2月8日、青山ミチの訃報を聞いた。

 正確な日時は明らかではない。彼女(おそらく一人住まいだった)の居宅を訪れた家族が、その死を知ったのは、少し時間が経ってからだったようだ。

『週刊女性』(1962年9月5日号)拡大青山ミチの「物語」を紹介した『週刊女性』(1962年9月5日号)
 彼女は1949年2月7日に生まれているから、まだ67歳だったのではないか。あちらに行くには早すぎる年齢である。

 私は「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い」(WEBRONZA)という文章の末尾で、歌の才に恵まれながらいくつかの躓(つまず)きを重ねた彼女が、どこかでもう一度、立ち上がる日が来ることを期待して次のように書いた(『「若者」の時代』、2015、所収)。

 「うまく説明できない反抗を繰り返し、誰のためにもならないトラブルにまみれて、少しばかり疲れてしまった歌手は、戦後歌謡曲とともに、舞台を降りたままである」

 ミチは、舞台を降りたまま逝った。彼女はひょっとすると、「もう一つの戦後歌謡史」をつくり出せた歌手だったが、いまやその可能性は永遠に失われてしまった。日本の戦後史に決定的な分岐点がいくつもあるように、青山ミチの中には、まだ誰も聴いたことのない、もう一つの歌の世界への入り口があったのではないかと私は考えている。

ミチがいた横浜山手

 訃報を聞いた数日後、私は彼女の生家のあった横浜山手の町を訪れた。根岸線の山手駅で降り、横浜港の方角へ、傾斜地の裾野をぐるりと巡るように歩く。

 山手地区は、尾根と谷が入り組んだ複雑な地形をなしており、私が歩いた道のあちこちには、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板が立てられていた。

 にもかかわらず、傾斜地の頂きや斜面から崖下まで、家はびっしりと建ち並んでいる。当時の住所を頼りに崖の下の路地へ入ってみると、同じ番地の家があったので驚いた。むろん建て替えられているだろうが、家の敷地はミチの生家と変わっていないように見えた。

 ここには、ミチの祖母、八木サキヲが経営する「エース」という米兵相手のバーが ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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