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村上春樹の新作で『君の名は。』を思い出した

何事もなかったかのように生き延びる「現状肯定」と「日本回帰」

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

村上春樹さんの新刊「騎士団長殺し」村上春樹の新刊『騎士団長殺し』(新潮社)

村上春樹の本とは思えない

 『騎士団長殺し』を読みながら、困った。あまりにもドラマがない。これまで村上春樹の小説は、謎の人物たちが時空を超えて行き来する破天荒な冒険があった。明らかに60年代後半の学生運動の刻印があり、ある時期からはオウム事件の影響もあった。そしていつも人殺しが重要な要素を占めた。

 前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では社会や歴史が欠如していたが、それでもそこには過去の自分のトラウマに向かうドラマがあった。自らの後ろめたさを克服するための、フィンランドを含む壮大な旅があった。ところが今回はそうした個人の悩みさえも表には出てこない。

 まず、今度の題名が村上春樹らしくない。いつものポップさはなく、極めて「文学」的なうえ「殺し」という不気味な言葉さえはいる。第1部が「顕れるイデア編」、第2部が「遷ろうメタファー編」とあえて読みにくい漢字を使い、イデアやメタファーといった哲学用語を散りばめる。まるでかつての大江健三郎の小説の題名のよう。

 ついでに言うと、装丁も地味。2巻とも西洋の古代の剣が描かれており、題名は明朝だがまるで毛筆で書いたようにかすれている。これぞ「文学」と言いたげな佇まいで、とても村上春樹の本とは思えない。

サスペンスやドラマを封じて

 冒頭に短いプロローグがあり、「顔のない男」の肖像画を描こうとする男の話が語られる。これまたいかにも「文学」的だがエピローグはなく、実はこのプロローグは小説の内容にあまり関わらない。

 小説は、36歳の「私」の9カ月を描く。主人公が妻と別れたばかりで、出会った女性と成り行きで寝るのはいつもの村上のパターンだが、この小説では最初に結末が書かれている。こんなことは初めてではないか。

 その当時、私と妻は結婚関係をいったん解消しており、正式な離婚届に署名捺印もしたのだが、そのあといろいろあって、結局もう一度結婚生活をやり直すことになった。

 その二度の結婚生活(言うなれば前期と後期)のあいだには、九ヶ月あまりの歳月が、まるで切り立った地峡に掘られた運河のように、ぽっかりと深く口を開けている。

 だからこの小説は妻が戻るという結末がわかったうえで、9カ月の「そのあといろいろ」を読むことになる。ところが、ここに大した事件が起こらない。簡単に言うと、すべては主人公の頭の中のできごとだ。つまり村上春樹はあえてサスペンスやドラマを自ら封じて、精神的な思考の深まりを狙ったと言えるかもしれない。

 「私」は画家だが、正確に言えば富裕層向けの肖像画を描いて暮らしていた。妻が去っていった後に北海道や東北を放浪し、それから友人の雨田政彦の父親が持っていたアトリエ兼住宅に住み始める。そこは小田原の山中で、政彦の父は有名な日本画家の雨田具彦。

 その住宅の近くには免色渉(めんしき・わたる)という謎の富豪が住み、「私」は彼の肖像画を描くことになる。もう一人近所で重要なのは、秋川まりえという13歳の少女で、免色は自分の肖像画を描いてもらうと、まりえの肖像画も描いてくれと依頼する。まりえはある時失踪し、(たぶん)「私」の尽力によって数日後に戻ってくる。雨田具彦はその頃に老衰で亡くなる。

 起こる事件はこれくらいか。そこで重要なのは、「私」の日常とその頭の中となる。まず主人公である「私」には最近の村上の小説には珍しく、名前がない。名前がないどころか、村上の主人公にしては珍しく、こだわりがない。

 雨田は昔から酒や食べ物にうるさい男だった。私にはあまりそういう趣味はない。ただそこにあるものを食べ、ただそこにある酒を飲む。

充満する日本的な要素

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