“最後の歌”と彼女が抱き続けた夢
2017年03月14日
青山ミチは昭和歌謡のどこにいたのか?――彼女が育った横浜・山手を歩く
青山ミチの歌手としての活動は、1962年のデビューから1966年までのポリドールレコード時代、移籍した1966年から引退を余儀なくされた1972年までのクラウンレコード時代に大別される。
前半の4年は、パワフルで張りのある声音と唱法で、アップテンポの“ゴーゴー歌謡”とでもいうべき世界をつくり出した。しかし、当初のライバルだった弘田三枝子の優位をついに覆せなかった。またポリドール時代後半のヒット曲がエミー・ジャクソンと競作になった「涙の太陽」だったことで分かるように、本来ならミチはその持ち味を生かして和製ポップスの先鋒に立つ位置にあったのに、すんでのところで後塵を拝した感がある。
さらにいえば、黛ジュンの「恋のハレルヤ」(1967)に先立ち、ミチはほぼ同じ作詞・作曲家による同工異曲の作品を発表していた。しかし黛の歌唱力とビート感、彼女をバックアップした制作チームの戦略は、ミチを追い抜いて和製ポップスを歌謡曲の新しい主流へ押し出していった。短い時間の間に、ミチは決定的な敗北を喫したともいえる。
このあたりのことは前掲の自著で述べたことなので省くが、ミチが自身のバックグラウンドだったポップスをやめて、その反対の極へ移っていったことは興味深い。
クラウン時代に出したシングル盤は13枚。ポリドール時代の半分ほどである。この時期の代表作はまちがいなく、1968年の「叱らないで」だ。星野哲郎がミチに書いた4曲のうちの一つである(作曲:小杉仁三)。
星野の詞には、誰とも知れぬ語り手が登場し、「あの娘」の不器用な半生を振り返り、本人に代わってその罪への赦しを聖母に請うている。なぜなら「あの娘がこんなになったのはあの娘ばかりの罪じゃない」からだ。
聞き手はいうまでもなく、「あの娘」をミチ本人として聞くが、そればかりではない。わが身にもまた「ひとにゃ話せぬ」傷や罪があることに思い至る。星野の詞は歌手と聞き手を共に包み込んで、「叱らないでマリヤさま」の一節に万感を込めている。
クラウン時代の曲を集めたシングル・コレクション・アルバムが、『男ブルース 女ブルース』のタイトルを冠して、2015年に発売された。同様のアルバムは過去にもあったが、今回はボーナストラックとして、未発表の「流れ星キッド」が収録されている。
13枚のシングルに収められていた全26曲は、実にバラエティに富んでいる。
基調は歌謡ブルースで、全体の半分を占めるだろうか。別れと涙が主役を務める類型性は否めないが、ミチの歌には、たんに悔恨に溺れず、引き潮のような自分の心持を観察する冷静さが同居している。たとえば、移籍直後に吹き込んだ「情熱の波止場」は、抑制されたていねいな歌が絶妙な情感を織り出している。素晴らしい作品だと思う。
また、「青いシャンデリヤ」のようなタンゴ調の曲や、湯川れい子が詞を書いた“ゴーゴー&エレキ歌謡”の路線(「淋しさでいっぱい」「太陽と遊ぼう」)も健在である。それに加え、星野・小杉コンビは、「女と酒」で重い艶歌も歌わせている。かと思うと「おもちゃの女」のように、「モータウン感」(鈴木啓之)が突如浮上する作品もある。こうしてミチの歌はこのあたりからさらに広がりと深みを獲得していった。
また指摘しておかなければならないのは、流行りに追随した明らかな二番煎じもあることだ。森進一の呻き節の
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