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続・英語教育は小学校低学年から必要なのか

「新学習指導要領案」がもたらす英語特権視をうれえる

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

英語を「外国語」の代表のように扱う不都合

小学生に英語を使って模擬授業をする女性教諭(左)=国際教養大小学生向けの英語を使った模擬授業=秋田県の国際教養大学
 そもそも学ぶべき「外国語」が英語である点も問題である。英語は多くの差別的な表現に満ちているからである。blackの意味については、「『ブラック企業』という言葉は『黒人』を差別する――『英語』の悪しき含意から身を解き放とう」(WEBRONZA)で論じた。英語に見られるもう一つの性差別の要素を問題にしたいが、これは別の機会にまわす。

 さらに問題なのは、英語を学ぶことを通じて、多くのものが失われるということである。学習指導要領案では「外国語の背景にある文化に対する理解を深め(る)」ことが英語授業の目的とされているようだが(朝日新聞2017年2月15日付)、英語の学習によって、それ以外の多様な諸民族の文化・社会が、むしろ理解されなくなるのではないか。

 英語は「イギリス語」である。あるいは、今日の現状からすれば、むしろ「アメリカ語」と言うべきであろうか(ただし厳密には「アメリカ」は南北の大陸全体の呼称である故、本来は「アメリカ合州国語」と、あるいは南米にはアルゼンチンなどの連邦国家があるため「北アメリカ合州国語」とでも言わなければならないが)。英語を特権視する現在の流れからは、英語を学ぶことによって、外国的なものといえばアメリカ的なものと思いこむ過ちを生む可能性がある。

 外国と言えば、アメリカのように(以下同じ)、誰もが名前(ファーストネーム)で呼び合う、外国と言えば、誰もが豊かでハンバーガーやステーキを食べる、外国と言えば、誰もがマイカーにのって家族でキャンプに行く、外国と言えば、誰もが神(ゴッド)を信じ日曜には教会へ通う、外国と言えば、誰もが英語を使う、等。

 だが、例えば私は「すぎたさとし」というが、外国人から「さとし」と呼びかける英語のメールが来て、ぎょっとすることがある。アメリカ人のように、肉をいわば主食とする国民は、むしろまれである。自動車の保有台数は、アメリカは日本とともに非常に多い。だが、発展途上国ではマイカーを保有しない人の方がはるかに多い。神を信ずる国民は多いが、その神は必ずしも西欧風の神とは似ていないし、また安息日は日曜とは限らない。安息日を持たない国民も多い。

 英語が通じる国は少なくないが、ほとんど通じない国もまた少なくない。かつて中国に行った際、ホテルや空港をのぞけば、ほとんど常に中国語でやりとりしなければならなかった。ロシアを旅行した人が「英語が通じない」と驚いたという話を聞いたことがあるが、それが当然であることを当事者は知らなかったようである。

 外国語活動・外国語教育で重要なことは、担当者がむしろ世界の多様性を教えることであろう。だが現状では、多様性どころか特権的・一元的な外国像が作られかねない。大学でさえ第二外国語を学ばなくても卒業できるような状態になっているが、今回の指導要領案は、英語の特権視をさらに強めて、多様性を忘れさせる愚をさらに推し進めるであろう。

 以前、表紙をめくった見開きのページに、世界の言語で「こんにちは」をどう言うかを図示した中学英語教科書を見たことがある。そしてそれをつくった編集者に話を聞いたことがある。「英語(だけ)を学ばせたのでは、世界の多様性が見えなくなる。だから、実際の学習は困難だとしても、せめて見開きページで、世界には英語以外にも多様な言語があることを、生徒に知ってもらおうとしました」と編集者は話していた。

 だが、残念だが、たいていの場合、教科書の本文に記されているのは、多様性を感じさせない英語および英語の世界だけである。なるほど教科書づくりに関わる人たちの努力の跡はある。数ある話題の中に異文化を扱ったものを、見たことがある。だがそれは便宜にすぎない。異文化に関する問題は、地理をふくんだ他の科目で学ばなければ、表層をなでて終わる。

差別の道具としての言葉

 おそらく、はるかに大きな問題は、英語の特権視を通じて醸成されうる差別である。

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