片山杜秀 島薗進 著
2017年04月03日
この数年、「タイタニック号」の譬えを耳にする機会が増えた。日本の現状を沈みゆく伝説の豪華客船になぞらえ、嘆き、憂いてみせる人が少なくないというわけだろう。
最近では、日本が豪華客船なのかどうかは別にして、少なくとも沈みゆくことのリアリティに関しては、どんどん増大する一方のように見える。とりわけ、森友学園問題を引き金にしてあらためて可視化しつつある「政官財民」の唾棄すべき野合の実態は、もはや「タイタニック」などという陳腐なレトリックを許さないほどに深刻である。この事態を、世界中を席巻している新自由主義由来の濃い霧の中に置いてみると、敗戦後の表向きのこの国の足跡、つまり幾分フィクショナルな臭いもあった戦後民主主義を、根こそぎ覆しかねない破壊力が仄見えるからである。
これだけでも未曾有の一大事なのに、課題山積みの今のこの国には、さらにもう一つの喫緊で放置することのできない難題がある。それは、去年(平成28年)8月8日に公にされた、きわめて異例な「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」をめぐる問題だ。
この二つの問題のあいだには、見逃すことのできない捩(よじ)れが存在する。それは、戦前の「政官財民」のほぼ無意識の野合を支えていた、天皇を中心とした体制の衣鉢を継ぐ諸勢力の目指しているものが、「日本会議」の理念や「戦後レジームからの脱却」という第一次安倍内閣のキャッチフレーズ、加えて森友学園の「幼児たちが唱える教育勅語」などから推察できるように、むしろ戦前的な国體(アンシャン・レジーム)への復帰願望に近いものであること。そして、彼らが自分たちの目指すものの中心にいるべきだと考える、今上天皇を筆頭とする今の皇室が、その思惑に反して「日本国憲法」と「戦後民主主義」の柱である「象徴天皇制」と「平和主義」の真摯な信奉者、さらにはサイパン、パラオなどを歴訪してきた、その粘り強い実行者であることに由来する。
この対談は、現行憲法の精神に忠実だった戦後の自らの足跡を背負い、「象徴」という言葉を7回も繰り返した今上天皇の「お言葉」への積極的な評価を軸にして、現代日本の民主主義の危機を強く訴え、憂える一冊だ。
『近代天皇論——「神聖」か、「象徴」か』(片山杜秀 島薗進 著 集英社新書)
そのために二人は、まず明治維新に立ち返り、歴史的な推移を丁寧に遡っていく。そこで時系列に沿って描かれるこの国の近代のシュプールを、各章の章題でざっとたどってみると次のようになる。
「第一章 ジレンマは明治維新に始まった」→「第二章 なぜ尊王思想が攘夷と結びついたのか」→「第三章 「天皇の軍隊」と明治天皇の神格化」→「第四章 「仁政」と「慈恵」の福祉国家」→「第五章 大正デモクラシーと未完のファシズム」→「第六章 戦後も生きている国家神道」→「第七章 神聖国家への回帰を防ぐために」
中で、現状に照らして最も身につまされる章を一つあげれば、第五章になると思う。ここでは、大正デモクラシーが、大東亜戦争へと雪崩を打つように滑り落ちていった歴史への洞察が、戦後民主主義が揺らぎつつある現状に重ねて、強い危機感を伴って語られている。
大正デモクラシーから(美濃部達吉の「天皇機関説」と、吉野作造の「民本主義」の二本柱に支えられたこの時代は、第一次大戦後の国際連盟に代表される、いまに近しいグローバリズムの時代でもあった)、縦割りと秘密主義がはびこり、最終的な責任主体のいない、片山の言う「未完のファシズム」の時代までのレンジの短さには、あらためて驚くばかりでなく、リアルに恐ろしい。
そして今、揺らぎつつある戦後民主主義を守る隊列の先頭に、象徴天皇として自らを全うしようと思い定めた今上天皇が位置しているという歴史のアイロニー。この捩れた事態に真摯に向かい合い、隘路を潜り抜けるためにどう覚悟するかが、対談者二人の自分の問題として語られている。「対談をおえて」の最後に書きつけられた片山の次の言葉に、深く感じ入るものがあった。
――丸山眞男は「戦後民主主義の虚妄にかける」と言いました。今上天皇の「お言葉」に深く説得された私としては、象徴天皇制の虚妄に賭けたいと考えます。
なお、巻末に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が掲載されている。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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