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[書評]『生命の内と外』

永田和宏 著

松本裕喜 編集者

広大な宇宙にも匹敵する人体 

 『近代秀歌』『現代秀歌』(ともに岩波新書)で近現代の短歌を鮮やかに鑑賞した歌人が、「生命」をどう解説しているのかに関心を惹かれて読んでみた。

『生命の内と外』(永田和宏 著 新潮選書) 定価:本体1300円+税拡大『生命の内と外』(永田和宏 著 新潮選書) 定価:本体1300円+税
 細胞生物学の世界は知らないことだらけ、どこまで理解できたか心もとないが、「身体の宇宙」という形容は単なる比喩ではないことがわかった。分子のレベルで見れば、生命=ヒトの身体は広大な宇宙にも匹敵する広がりを持った世界なのだ。以下、この本の中身を紹介してみたい。

 まず著者は、ヒトの口から肛門までは外部なのだという。モノを食べるとき食物の通っていく口腔や喉、それを消化する胃や腸、排泄する肛門――要するに消化器管はヒトの「内なる外部」なのである。

 消化器官だけではない。空気は鼻や口から入り、咽頭から気管支を経て肺胞へ至り、そこで血管へ酸素を送り込む。一方、血管からは二酸化炭素を放出させる。この鼻腔から気管支までの呼吸器も外部である。

 食物に含まれるタンパク質などの栄養素は消化管を通り抜けていくあいだに何度も分解され、やがて腸管から人体に吸収されてゆく。消化管の内側では上皮細胞という細胞がびっしり並んで壁をなしている。栄養素はアミノ酸などの分子に分解されたあと、細胞膜を潜り抜けてヒトの内部に取り込まれる。

 ヒトの細胞は60兆個(最新の学説では37兆個とも)あるそうだ。もしこの細胞を一列に並べると、地球を16周するだけの長さになるという。

 現在の細胞生物学では、1.すべての生物は細胞の個体もしくは集合体からなる、2.細胞はすでにある細胞からのみ生成する、3.個々の細胞そのものが自律的に生命活動を行い得る、の3点が基本概念として確立しているそうだ。

 細胞は細胞からしか生まれないとすると、地球の最初の細胞はどこでどのように生まれたかが問題だが、まだわかっていないらしい。著者によると、生物学、生命科学はわからないことだらけの世界なのだ。

 生命の必要最低限の条件は、1.外界から区別された単位であること、2.自己複製し、子孫を残せること、3.代謝活動を行っていること、であるという。

 原始地球において初めて現れた生命は、バクテリアの祖先である原核細胞と考えられている。このとき、細胞に膜ができて(細胞膜)、外界から区別される存在となった。

 ヒトの身体には300~1000種類、600~1000兆個のバクテリア(腸内細菌)が棲んでいる。腸内細菌は腸のなかでの消化を助け、食べ物などとともに入ってきた新たなバクテリアに対しての感染防御の役割も果たしている。人糞の3分の1は腸内細菌の死骸、3分の1は小腸などから脱落した細胞、残り3分の1が食べ物のカスだという。消化管(腸内)はバクテリアと共棲する外部なのだ。

 細胞膜から内膜と外膜の核膜ができた。その二重の核膜のあいだのスペースが小胞体で、これも細胞の内なる外部である。消化器や呼吸器だけでなく、60兆個の細胞のなかにも、それぞれ外部があるというのである。細胞のタンパク質の3分の1はこの小胞体で作られる。

 ヒトの三大栄養素はタンパク質、脂質、炭水化物である。消化酵素によって、タンパク質はアミノ酸に、炭水化物はグルコースなどの単糖に、脂質はグリセロールや脂肪酸に分解されて小腸から吸収される。栄養摂取の主たる場は小腸である。

 タンパク質は生命の最小単位としての細胞を作っている重要な分子である。タンパク質がなければ生命活動もない。私たちの細胞のなかでは絶えずタンパク質が作られ続けている。肝細胞のような活発な細胞では、1個の細胞のなかで1秒間に数万個ものタンパク質が作られているという。

 ヒトの体の中で最も量の多いタンパク質がコラーゲンで、著者はそのコラーゲンの合成に必須の分子シャペロンHSP47の発見者である。タンパク質を作るにはDNA上に書かれた遺伝情報に従った正しいアミノ酸の配列が必須だが、その塩基配列の三次元化(フォールディング=折り畳み)を助けるために働くタンパク質が分子シャペロンである。

 作られたタンパク質はそれが働くべき場所に輸送されなければならない。この細胞内のタンパク質の輸送システムを、著者は「宛先と表札」「葉書型と小包型」などの譬えを用いて明快に解説する。「閉じて開く」細胞膜の仕組みはすごいが、このあたりは簡単に説明できる内容ではないので(無論、当方の消化力の問題もある)、はしょって概略だけを紹介する。

 生命現象の基本は、1個の個体として、もしくは生命の基本単位である細胞として、システムの恒常性(ホメオシタシス)を保っていることである。細胞や個体に変化が起きた場合、行きすぎればスイッチを切り、反応が低すぎればスイッチを入れる。生命は、この「負のフィードバック」で制御され、維持されている。

 哺乳類の細胞は37℃(体温)で培養される。これより数度高くなると細胞内のタンパク質はその構造が乱れ、変性の危機にさらされる。このとき、細胞はストレスタンパク質を作り(スイッチを入れるわけだ)、凝集などの変性からタンパク質を守るのだ。

 変性タンパク質や凝集体が溜まってしまった場合はどうするか。このとき細胞内の小胞体がタンパク質の生産ラインを一時停止し、ついで不良タンパク質を修理・再生、修理できないものは廃棄処分にする。こうした工場顔負けの品質管理が10~20ミクロン(1ミクロンは1ミリの1000分の1)の細胞のなかで行われているのである。自分の体がいとおしくなるような、見事な仕事ぶりではないだろうか。

 このあと昨年(2016年)ノーベル生理・医学賞を取った大隅良典などの研究したオートファジー(自食作用)によるタンパク質の分解の話、外部からの異物を「非自己」と認識し「自己」由来の分子と区別した上で異物を排除する、免疫システムの話がある。

 またインフルエンザやエイズなど、それ自体では生きることも増殖することもできないものの、細胞に侵入してタンパク質を借りた上で自分たちの遺伝子を増やすウイルス、そして感染症で唯一DNA、RNAなどの遺伝子と関係せず、タンパク質だけで感染するプリオン病(狂牛病など)が解説される。

 50点以上の図版を添え、短歌で鍛えられた(と思える)巧みな比喩を用いて読者の理解を促す、懇切丁寧な記述の本だと思う。「注」の情報量もすごい。しかも入門書にありがちな、わかった気にさせるだけの安易な省略化を避け、「少し専門的になりすぎることを覚悟で紹介した」という姿勢にも感心した。

 正直に言えば、「オルガネラ」「サイトゾル」「ポリペプチド」等々、細胞生物学の専門用語が多く使われ、再出の際にはその意味を忘れていて、ページをめくり直さなければならないことが何度もあった。しかし、わからなければ何度も読み返せばいいのだ。それだけの内容が盛り込まれた本である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

筆者

松本裕喜

松本裕喜(まつもと・ひろき) 編集者

1949年生まれ。40年間、三省堂で書籍を編集。主な仕事に建築・都市をテーマにした『日本の建築明治大正昭和』(全10巻)、『都市のジャーナリズム』や、歴史・思想ジャンルの『江戸東京学事典』『戦後史大事典』『哲学大図鑑』『心理学大図鑑』など、また言葉・詩歌がテーマの『一語の辞典』『新明解故事ことわざ辞典』『三省堂名歌名句辞典』などがある。2013年退職後、俳句雑誌『鬼』編集長。本をじっくり読むのが、強み、読むのが遅いのが、弱点。