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[15]再び「子殺し」「親殺し」考 『晩春』8

能楽堂のシーンが表出するもの

末延芳晴 評論家

杉村春子が仕掛けたもう一つのたくらみ

 前回見たように、杉村春子の家に原節子と三宅邦子が来合わせ、二人が紹介されたことが、原に早く見合いをさせ、結婚させようとする杉村春子のたくらみによるものかどうかは、スクリーンを見る限り分からない。

 三宅が、「失礼申し上げました」と玄関を出て去っていったあと、杉村は、「紀ちゃん、ちょっと」と奥の居間に原を呼び込み、「実はいい人があるんだけど、一度あんた会ってみない?」と、見合いの話を切り出し、「伊予の松山出身」で、「東大の理科」を出ていて、「丸の内の日東化成」に勤めている「佐竹」という男が見合いの相手にどうかと、原に奨める。

 それに対して、原が「あたしがいなくなると、お父さんが屹度(きっと)困るわ」と断るのを受けて、杉村は、それならと、笠智衆と三宅邦子を再婚させたらどうかというアイディアを持ち出してきたわけだが、それが、杉村の頭のなかに最初からあって、そのアイディアを原に伝えるために、原と三宅を同じ日の同じ時間帯に呼び寄せたのか、それとも笠と三宅を再婚させるというアイディアが、その場の思いつきで出てきたものかも分からない。

 だが、そのあとのシーンで、笠智衆と原節子の親子と三宅邦子が同じ能楽堂に来合わせ、舞台の上で演じられている『杜若』(かきつばた)を見るというのは、明らかに原の見合い話を前に進めようと思う杉村の計らいによるものであるに違いない。杉村は、三宅邦子も同じ能楽堂に来合わせていることを、ある意味でお見合いというニュアンスを持たせて、笠の隣に座る原に目撃させ、父親の再婚の話が、現実のものとして進みつつあることを原節子に納得させる必要があったからである。

 とは言っても、二人の再婚の話は、あくまで杉村春子の頭のなかで組み立てられた話であって、笠智衆と三宅邦子の二人が、能楽堂に来合わせ、眼差しと笑顔の挨拶をやや離れた距離から交わし合った時点で、自分たちの間に再婚の話が持ちあがろうとしていることを、知っていた可能性は殆どゼロと言っていい。なぜなら、能楽堂の正面桟敷席で、斜め向かいの席で三宅邦子が舞台に見入っているのを笠智衆が気づき、その眼差しが自分に注がれているのを三宅が感じ取って、舞台から目を離し、顔を笠と原の方に向けて、相互に軽い笑みを浮かべて会釈する、その表情は、あくまで杉村春子を介して知り合った者同士の間の、世間的な儀礼の範囲に収まる親和の感情以上のものは認められないからである。

 しかし、原節子だけは違っていた。笠と三宅が会釈を交わし、原もいささか作られたような笑顔で三宅と会釈を交わしたあと、笠と三宅は再び舞台に見入るなか、原は、「この人とあの女(ひと)とが……」といった表情で、交互に笠と三宅の顔を盗み見る。ここでの監督小津安二郎の極めて抑制的な演技指導の下、原節子が微細に、刻々と変転する顔の角度や眼差しの方向、目つきや口元の変化など、表情の変化だけで、男(父親)に裏切られた女の「負」の感情の働きを表出していく演技は見事というしかない。

 ここで、原節子は、にこやかに笑顔を浮かべた会釈に表出された親和の感情から、「なぜ三輪の小母さまがここに?」という懐疑、「もしかすると、お父さんと三輪の小母さまとの再婚の話は、本当のことなのかもしれない」という不安、さらに「この人たちが夫婦となって、小野寺の小父さまのように不潔なことを?……」という嫌悪感、あるいはそこからさらに発展して自分から父親を奪い取ろうとする三宅に対する嫌悪と嫉妬や敵対心、自分を裏切った父親に対する怒りや怨念、復讐心、さらに父が再婚したあとの自身の生活に対する不安、「だれも助けてくれない、私は一人ぽっちだ。ああ、死んでしまいたい」という孤立感と絶望感、そして最後に友人のアヤのように英文速記で身を立てて、父から独立して生きて行こうという決意まで、男に裏切られた女の情念のドラマを、まさに能のなかのもう一つの能として表出させていくことになる。

 さてそれでは、最後は「父殺し」を犯してまでして、自立して生きて行こうと覚悟を固めるまで原節子は顔の表情や角度、高低、さらには眼差しの方向や目つき、眉毛、睫の陰翳、口元や唇などの微細な変化を通して自身のの内面意識や感情、情動の動きをいかに表出していったか、時系に沿って映像で見ていくことにしたい。

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