木谷佳楠 著
2017年04月06日
おもしろい。本書は元々、同志社大学大学院神学研究科に提出された博士論文。だが、一般向けに大幅に改めたと断りがある通り、じつに読みやすい。
『アメリカ映画とキリスト教――120年の関係史』 (木谷佳楠 著、キリスト新聞社)
構成は時系列で、1章「映画の誕生とキリスト教(1880-1920年代)」、2章「プロダクション・コードの施行と検閲の開始(1930-40年代)」、3章「『神の国アメリカ』とエリア・サガン(1950年代)」、4章「『古き良き時代』の終焉(1960-70年代)」、5章「キリスト教右派の台頭(1980年代)」、 6章「終末思想とアメリカ映画(1990-2000年代)」。つまり時代ごとに具体的な作品、映画業界の動向とアメリカ社会の側面が、じっくり考察される。
特に惹き込まれるのは、(一般読者には「創世記」がそうであるように)前半部。驚かされるのは、アメリカの多くのキリスト教団体が、映画が本格的に産業化される前から宣教のための有効性に注目し、聖書取材作品の製作と上映に積極的だったこと。
そもそも聖書という「オーラル・メディア」と、ステンドグラス、教会建築・音楽という「オーディオ・ビジュアル・メディア」の組み合わせ自体が映画向きと説明されると、(アメリカだけに)まさにコロンブスの卵と納得する。初期に最も普及した映像は、『キング・オブ・キングス』(1927年)のH・B・ワーナー演ずるイエス。当時の米国人の多くは、祈りの時にワーナーの顔を思い浮かべたという。
ところが映画人気が高まるにつれ、業界に放蕩が広がり、教会は圧力団体化する。一方、大衆動員を見込んだ興行主たちが巨大産業化を推進し、作り手はアングロサクソン系(発明者エジソンもそう)からユダヤ系へ、拠点もニューヨークからハリウッドへと移る。時代は、大恐慌。現実逃避を渇望する大衆に応えるため、映画界は、聖書以外の様々な物語で人々をとりこにする。暴力と性的表現は(今の目で観ると慎ましいが)、キリスト教団体から指弾され、反ユダヤの動きも活発になる。
かくして、カトリックとプロテスタント各派が共同で突きつけたのが「プロダクション・コード」。大罪を犯した映画界に示された《十戒》(本書の中の比喩)である。
このコードは、1934年から68年までハリウッドを制した。神への冒涜、性的不品行、殺人ほか違法行為の描写は、全てNGとされた。例えば、未婚の男女が寝室に「いる」だけで禁止。夫婦でも同じベッドに入る描写は禁止。そこでダブルベッドを分割した「ハリウッド・ベッド」が開発された(「ツインベッド」の起源?)。「ターザン」のヒロイン(モーリン・オサリヴァン)の衣装も変わった。34年《Tarzan and His Mate》は露出の多いビキニふう、2年後《Tarzan Escapes》では肩も隠したワンピースふうである。
もちろん、より本質的な影響も多い。例えば『カサブランカ』(1942年)。リック(ハンフリー・ボガード)とイルザ(イングリット・バーグマン)は、回想場面で明らかに恋人だが、性的な暗示は許されなかった。イルザには夫(ポール・ヘンリード)がいたから。もしリックとの性的関係を描写すると不倫の奨励となり、コードが認めない。またラストでリックは、イルザと夫だけを亡命させる。あれを我々はリックの男気と見、グッとくる。だが著者は、コードに基づく処置であり、かつ欧州の戦争に加わる米国人の意思を示すことで「時代の要請」に応えたと言い添える。傑作誕生の皮肉さである。
戦後の有名作品では、『ベン・ハー』(1959年)。イエスの姿はつねに斜め後ろか遠景で、正面からは映さない。驚愕し、畏敬するベン・ハー(チャールトン・へストン)の表情で全てが表される。この撮影手法、巧みな演出とずっと思っていたが、実は「神の子」をはっきり描写するのを冒涜とするコードへの配慮だったのだ。
こうした往年の伝説的名作の点検はわくわくする。だが、そればかりではない。考察を進める著者の姿勢は揺るがないが、読む側の気分が重い部分もある。例えば赤狩りの時代、昔の共産党員仲間の名を明かしたギリシャ系《ユダヤ人》監督エリア・カザン。まさに《ユダ》とされた名匠はハリウッドでの復権を賭け、自身の「裏切り」とキリスト教的「犠牲」を投影した『波止場』(1954年)を撮ってオスカー8部門受賞に輝いた。
だが、カザンへの毀誉褒貶は相半ばする。ことの本質は映画界だけの問題ではない。「プロダクション・コード」廃止後もアメリカ社会に存在する強い《戒め》を思い知るのだ。例えばイエスを描いた『最後の誘惑』(1988年)と『パッション』(2004年)。それぞれ経緯に光が当たるけれど気分は暗くなる。前者は宗教右派から激しく抗議され、後者は影響力のある宗教家を味方につけ大成功。だが、反ユダヤ的視点への批判は長く尾を引いた。
最終章では、「9・11」を経たアメリカが、聖書に忠実か否かにかかわらず、新たな《敵》を映画に描き込むことで(聖書にある)終末思想を伝えた諸作も、紹介される。その根底には、建国の伝統への回帰という聞きなじみのある標語が潜んでおり、極東の島の凡夫にも、強い危機感を覚えさせずにはおかない。
量産されるアメリカ映画は、メディア激変の時代でも合衆国の象徴であり、世界へ影響力を持っている。制約する社会と束縛する国家でしか生きられない個人に、巧緻であれ幼稚であれ、夢を与えてくれることもある。鑑賞後、苛烈な現実に引き戻されても、だ。
しかし著者は、非米国人がアメリカのキリスト教と映画の関係を知る意味を、「輸入された食品のパッケージに記載された『原材料』を見る行為」と、絶妙な比喩でしめくくる。確かに我々は「国産」だけで満足できず、かの国が作り出す様々な「輸入品」を口にせざるを得ない。ならば「原材料」の知識の有無は心身に大きく影響しよう。
もしも著者が《一つ一つの言葉》に聖なる何かを込めたとしても、忖度する必要はない。《パンのみ》いや《映画のみ》の魅力を貪りたい不純な動機で読んでも、本書は充分おもしろいから。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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