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[書評]『日本精神史』

阿満利麿 著

佐藤美奈子 編集者・批評家

「長いものには巻かれろ」主義がはびこるのはなぜ?  

 このところ巷を騒がせている森友学園問題や豊洲市場移転をめぐる東京都政のニュースを見るにつけても、責任の所在を曖昧にして時間が過ぎ去るのを待ち、事態を終息させるやり方が十分すぎるほどまかり通るのがこの社会だと、つくづく実感させられる。

 日本社会ではどうしてこうも事大主義(「長いものには巻かれろ」)が蔓延するのか。日本の組織ではどうして無責任体制が成り立ってしまうのか。天皇ではなく民衆が「一億総懺悔」した太平洋戦争の敗戦や3・11後の原発事故の背後に天皇や国、大組織の責任回避が見られただけでなく、たとえばオウム真理教事件(1995年)が起きた要因にも、尊師への忖度(そんたく)に必死だった幹部信者の行動をはじめとした無責任体制があった(森達也著『A3』(集英社文庫)など。本書もこの点に触れている)。

 もちろんこれらにとどまらない無責任体制や大勢順応を示す事例の数々を考え合わせると、日本という社会に生きる人びとの精神風土とは一体何か、という問いはおのずと湧く。また、この問いを共有する人も多いはずである。

『日本精神史――自然宗教の逆襲』(阿満利麿 著 筑摩書房) 定価:本体1800円+税『日本精神史――自然宗教の逆襲』(阿満利麿 著 筑摩書房) 定価:本体1800円+税
 本書は、こうした問いに、「自然宗教」という言葉をもってこたえる。

 『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)『法然の衝撃――日本仏教のラディカル』(ちくま学芸文庫)『親鸞・普遍への道――中世の真実』(ちくま学芸文庫)など、過去の作品でも日本における精神風土について論じてきた著者は本書でも、民俗学、歴史学、宗教史、思想史の知見を総動員し、「この国を呪縛するものの歴史的由来」(帯)を明らかにしていく。

 マスコミに就職し、その後大学で教鞭をとるようになった経歴を持つ著者は、「『言論の自由』という言葉の虚しさを、イヤというほど味わった」という。それは「自主的に物事を考えることが苦手」で「付和雷同しがち」で、「主体性のない」人びとが多数を占めるこの社会には、「言論の自由」を享受・謳歌するための土壌がそもそもないからだ。

 こういう、主体性の確立を阻むような精神のあり方に大きな影響を与えているのが、著者のいう「自然宗教」である。本書によれば「自然宗教」とは、「創唱宗教」と対になる宗教学の概念で、教祖不在で、教義や教説は体系立っておらず、自覚的な「信者」もいない「自然発生的」な宗教を指す。いっぽう「創唱宗教」とは、教祖とその教え(たとえば聖書や聖典など)、自覚的な「信者」が存在する宗教のことで、風土や民族を超え普遍をめざす宗教と言うこともできる。

 どの社会にも「自然宗教」は残っているものの、日本は「自然宗教」の優位が際立っているという。そして日本の「自然宗教」には、広い意味での「神道」(「民間信仰」「俗信」を含む)を指し、「儀礼や祭式を通じて伝承される心意・行動様式」としてあらわれ、「個人の宗教ではなく、集団のための宗教である」という特徴があるという。

 仏教という「創唱宗教」が輸入され、たとえ「教団仏教」が巨大化しても、鎌倉新仏教の一時期を除き、仏教が「自然宗教」や国家から「完全に自立したことは皆無」だった。こうした日本宗教史――「自然宗教」の優位が続いた――を踏まえたうえで、著者は鎌倉新仏教の、とくに法然の「専修念仏」が持つ可能性に光を当てる。

 それは法然の「専修念仏」こそ、日本史上はじめて成立した「普遍宗教」であり、普遍宗教とは集団のための宗教ではなく、個人の救済をめざす宗教であることとも関係する。

 「自然宗教」は、日常生活を平穏無事に過ごすための「小さな物語」を提供してくれるかもしれないが、「小さな物語」では対応しきれない悲劇や不条理に見舞われた個人は、どこまでいっても救済されない。それに対し法然の専修念仏は、「凡夫」の自覚を機に誰もが到達できる安心の境地を説くことで普遍性を備えた「大きな物語」を用意する。

 法然は徹底して個人(しかも社会の最下層に属する個人)に付き合い、「大きな物語」に立脚した生き方を提供することで、個から普遍に至る思考の回路を開くのだ。思考し、さらにその思考を成熟させて普遍に至る道筋が開かれる過程で、一人ひとりの主体性が育まれ、個人が確立される。

 「主体性」や「個人」が焦点化される側面に、普遍宗教たる法然の専修念仏がもつ、現代的な大きな意味があろう。本書のタイトルにある「精神」とは「新たな主体性の根拠を提示できる普遍的宗教を意味する」とあらかじめ断られるが、近代以降に専修念仏の理想を体現した人物――福沢諭吉、今村恵猛、橋本峰雄ら――の活動も具体的に紹介されることで、たんなる歴史的記述を超えた本書の性格も浮かび上がってくる。同時に、事大主義・大勢順応主義のはびこりに対して著者が抱く危機感とその「切実さ」が行間を満たすところに、非常にスリリングな本書のダイナミズムがある。

 ちなみに、森達也氏の近刊『希望の国の少数異見――同調圧力に抗する方法論』(言視舎)でも、「個人」について深く考えた宗教界の巨頭としての法然がクローズアップされている。いま法然が注目されることの理由を考えないではいられない。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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