金哲 著 渡辺直紀 訳
2017年04月28日
朝鮮はかつて大日本帝国の植民地であった。この時期、朝鮮人作家が小説を書くことは、事実上、外国語で創作することと変わりなかった。日本留学中の1919年に朝鮮初の文芸同人誌『創造』を刊行した金東仁(キム・ドンイン)は「構想は日本語で、書くのは朝鮮語で」おこなった。平壌出身で東京帝大独文科を卒業した金史良(キム・サリャン)の小説「郷愁」(1941年)は日本語で書かれ、日本の総合雑誌『文藝春秋』に掲載された。彼らは日本語と朝鮮語の二重言語使用者、一つ口で二つのことを話す者、つまりは植民地の腹話術師であった。
『植民地の腹話術師たち――朝鮮の近代小説を読む』(金哲 著 渡辺直紀 訳 平凡社)
文体は平易だが、言語をめぐる死闘、植民地朝鮮の実相、現代韓国に潜む帝国の影を可能なかぎり明らかにしようとする手つきは静かな迫力を帯びている。
李光洙(イ・グァンス)、朴泰遠(パク・テウォン)、崔明翊(チェ・ミョンイク)、金東仁、李人植(イ・インジク)、李孝石(イ・ヒョソク)、李箕永(イ・ギヨン)、蔡萬植(チェ・マンシク)、廉想渉(ヨム・サンソプ)、金允植(キム・ユンシク)、韓雪野(ハン・ソリャ)、李箱(イ・サン)、金南天(キム・ナムチョン)、白石(ペク・ソク)、金裕貞(キム・ユジョン)、尹致昊(ユン・チホ)、李泰俊(イ・テジュン)、金史良、張赫宙(チャン・ヒョクチュ)、許俊(ホ・ジュン)、厳興燮(オム・フンソプ)。
本書で扱われるこれら朝鮮の作家たちにとって、日本語は「脱出不可能な宿命」のようなものだった。日本を経由して流入した西欧の新しい文物としての「小説」、それを朝鮮語で書くという行為。ハングルと漢字、日本式の英語表記、日本語音のハングル表記、日本の漢字音の朝鮮式音写、日本語の単語の朝鮮語による意味表記などがめまぐるしく混在する文字体系が、その宿命をこれ以上ないほど表していた。
満州事変(1931年)、日中戦争(1937年〜)、太平洋戦争(1941年〜)と続く総動員体制において、「内鮮一体」が叫ばれ、日本語使用の強要がなされる以前から、彼らの日本語との格闘はすでに始まっていたのである。
しかし、この過程を「純粋な朝鮮語」に「粗雑な日本語」が浸透したものとして、あるいは「帝国主義の言語」が「植民地の言語」を支配した結果として見るかぎり、近代の言葉をみずからのものにしようと数々の努力と失敗を重ねた作家の苦悩も作品の意味も、真に理解することはできない。
そこに残るのは、「純粋な母国語を汚染させた不潔な侵入者を追い出し追放しようという、浄化と清算への虚弱かつ神経質的な欲望」だけである。そして「その欲望が遂行しうるのは暴力以外の何物でもない」。ここで金哲が上記作家のうち、ほとんど全編にわたって李光洙に言及する理由が見えてくる。
李光洙は朝鮮近代小説の嚆矢とされる長篇『無情』(1917年)の作家として知られるが、のちに日本の植民地支配に同調的な発言を始め、1940年には香山光郎(かやま・みつろう)と創氏改名して学徒動員演説などをおこない、解放後に対日協力のかどで逮捕された。
このような「親日作家」は、韓国においては現在に至るまで単に糾弾の対象にすぎない。だが、「民族と母国語に対する卑怯な背信行為としてしか記憶されていない」記録を丹念に覗き、そこに「まったく異なる姿」を発見しようとする金哲は、李光洙の作品のなかに「敵の刃をとらえて敵を切ろうという、きわどい精神の曲芸」をつぶさに見いだす。
李光洙の評価に、金哲の立場がもっとも端的にあらわれている。すなわち、「ひたすら一つの言語だけを話す者、母語の自然性の世界の中だけに生きる者にとって帝国は視野に入ってこない」。
崩壊してなお人びとの精神を支配する帝国の秩序に対抗する道、「腹話術が帝国の心臓を深く衝く鋭利な刃になりうる可能性」は、「自らの言語でない他の言語で他の思考を試みる者」に初めて開かれることを金哲は豊富な引用をとおして私たちの前に示してみせる。
植民地朝鮮の記憶を問う以上、本書を読むことにはある苦さを伴わずにはいない。だが、「植民地が近代であり、近代が植民地である。これを否定すれば実状が見えず、実状が見えなければ不当と暴力が乱舞する」。清算や刷新が唱えられるとき、掛け声の背後にはかならず憎しみや復讐心が隠されている。
〈美しい国〉とはディストピアの別名である。必要なのは、「過去の垢」を洗い流すことではなく、何がその歴史的苦痛を生んだのか、みずからに問い直しつづけることであると本書はいう。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください