2017年05月22日
私たちの生活に欠かせなくなっているもの。それは、検索である。
分からないこと、聞いたことのないこと、調べたいことがあると、おもむろにスマートフォンを取り出し、インターネットブラウザーを立ち上げる。フリックで文字を入力、検索ボタンを押せば、1秒も立たない間に複数の答えが画面に表示される。
インターネット上に存在する情報のなかには、信憑(しんぴょう)性に欠けるものも数多くあることを誰もが心得ているため、一つのページに記載されている内容を鵜呑(うの)みにすることはない。上位に出てきた幾つかの記事を乱読し、概要を理解する。
打ち合わせや何げない会話で話題にのぼれば、その場で検索し共有できる。近場で食事をすると決まれば、あたりを見回すことなく、スマートフォンでの店探しが始まる。
かく言う私も、ふと疑問に感じたことや、知らない言葉が出てきた時には、無意識のうちにこの一連の動作をしている。もはや、条件反射に近い。
こうした「問題勃発、即、検索」という行動が当たり前になってしまうと、自分の頭で考えることが少なくなり、「とりあえず検索」が横行する。とりあえず答えが見つかり、とりあえず安心できるからである。
その結果、興味や好奇心は、燃え上がる間もなく鎮火されてしまう。分からない「歯がゆさ」を感じる経験もなくなるため、自分で答えを探ろうとする探求心や考える力は脆弱(ぜいじゃく)になり、とりあえず検索がさらに進んでいく。まさに、負のループに陥るのだ。
インターネット記事の無断転載や、論文盗用などのコピー&ペースト問題はニュースになっているが、実は、ニュースにならないところで、さらに深刻な事態になっているのではないかと推測する。
本来、自分で考えるべき就職活動での自己PRや志望動機、業務での企画内容や企画書まで、とりあえず検索して、参照の名のもとに切り貼りしてしまうことが危惧される。
現に『就職活動 自己PR』『転職活動 履歴書 志望動機』『大学 レポート』『企画書 書き方 参考』と検索すると、膨大な検索結果が表示される。情報を提供する人が多いということは、世の中からのニーズが高いことの裏返しとも言える。
そこで、私個人が一番の問題だと感じているのは、数多(あまた)ある検索結果を「選択肢」として捉えることで、自分の考えに近いものを選択できてしまう環境にあることだ。その結果、自分で選択したという行為を、自分で考えたと混同してしまい、考えたつもり、考えたと錯覚してしまうことになる。
ネットに掲載されている内容は「誰かが課題意識を持ち、言葉にできるだけ考え抜き、導き出した答え」なのにも関わらずである。
注目したいのは、課題が発生したと同時に答えを検索する行為そのものではなく、検索した先にある情報が、あなた以外の誰かが頭を抱えながら出した答えであるという事実である。答えが分かったところで、答えにまでたどり着いたプロセスを理解しなければ、意味がないのだ。
算数や数学の経験を思い出してもらうと分かりやすい。
たとえば、難解で回答できそうにない設問があったとしよう。どんなに悩んでも手も足も出ず、模範解答を見てみる。すると「言われてみれば、確かにそうだ」と拍子抜けするほどシンプルに解かれており、分かった気になる。
しかし、もう一度自分で解いてみようとすると、筆が止まってしまう。まったく同じ問題であれば、記憶を頼りに手がかりを探し当てることもできるかもしれないが、設問や聞かれ方が少しでも変わってしまうと、何もできなくなってしまうのだ。
この状況は私たちの生活で行われていることと、相似形である。
分かったつもり、考えたつもりになっているのに、聞かれ方が変わると、同じことをまた検索してしまう。検索結果を見てはじめて「そう言えば、前も同じ検索をしたな」と気付くのである。
理由は明確である。すでに答えが明示されているものや、言語化されているものは、当たり前に見えてしまうからだ。「なんだ、そんな簡単なことだったのか」と感じることで、答えを導き出すためのプロセスは軽んじられ、検索結果すら右から左へと抜けていってしまう。
算数や数学には「部分点」という評価法があるのだが、これは解答そのものではなく、解法プロセスこそが重視される表れである。この部分点での評価においても、やはり、実社会と相似形であると言える。
そこで私たちがすべきこととは何だろうか?
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