小林和幸 著
2017年05月18日
「国民主義」って、何のこと?と思う人が、たぶんいるだろう。「国民主義」は国家主義や民族主義と同じように、ナショナリズムの訳語として使われてきた言葉ではある。だが、《「国民主義」の時代》となると、よく分からない。そこに「明治日本を支えた人々」という副題が重なる。どういうこと?という思いが募る。
そんな思いで書店の本棚で本書を手にした。
『「国民主義」の時代――明治日本を支えた人々』(小林和幸 著 角川選書)
明治日本は短期間に憲法と議会を持つ立憲政治体制を確立した。むろん、その体制は「神聖にして侵すべからず」という天皇をいただくものであった。
私たちは、その悲惨な結末も知っている。しかし、明治日本が非西欧社会にあって着実に近代化の道を歩んだことはまちがいない。この「成功」はいかにして成し遂げられたのか。
「民」の力があった。国会開設を求めた自由民権運動が典型だろう。一方、当然に「官」の力が大きかった。伊藤博文に代表される政府の憲法制定への努力をあげることができよう。だが、「もう一つの政治勢力」が果たした役割も大きかったと著者はいう。
明治初年、士族や農民の反乱が続発した。急激な西洋化を進める専制的な藩閥政府に対する反発がその基底にあった。「もう一つの政治勢力」は、こうした専制的な藩閥政府を批判し、一方で民権派の過激な主張や行動を国家の統合を乱すものとして抑制を求めた。
むろん、「旧社会」への復帰を求める復古的な主張は排される。憲法制定や国会開設は当然と考えられた。立憲政治体制を確立することで国民に過大な負担を強いる政府を監視し、特定集団の私的な利益追求を抑制しようとしたのである。
著者は、こうした「もう一つの政治勢力」について、次のように書く。
《彼らは、国家と国民全体の利益(公共の利益)を守る行動と自らの運動を位置づける》
明治日本において、「もう一つの政治勢力」は単一の政党や団体として組織されたわけではない。一人の指導者が率いた運動でもない。政治家や思想家のみならず、軍人や新聞記者もいた。だが、彼らはしばしば中核的な人物のもとに連携・結集して運動を展開し、国民を動かした。
こうした政治勢力を、著者は「国民主義」の勢力と呼ぶ。
明治日本について、国民と国家、国権主義と平和主義、国粋主義と西洋化といった対立図式で捉えようとする理解がある。著者は《そのように自明化された対立図式は、あらためて問い直されなければならないのではないか》と述べる。その「問い直し」の視点が、つまりは著者のいう「国民主義」である。
登場する人物は、佐佐木高行、谷干城(たてき)、曾我祐準(すけなり)、鳥尾小弥太、近衛篤麿、三浦悟楼、陸羯南(くが・かつなん)、笹森儀助らである。
これらの人々は「保守主義者」あるいは「守旧派」といったかたちで言及されることが多い。だが、この手のレッテルは実のところ何の意味もない。著者は、憲法制定・議会開設・条約改正・日清戦争・日露戦争など、具体的な局面での彼らの言説と行動を丹念に追究し、「もう一つの政治勢力」が「もう一つ」であった内実とその影響力に光を当てている。
「中核的な人物」としてもっとも重視されるのは、谷干城である。谷については、著者はすでに『谷干城――憂国の明治人』(中公新書)という評伝を著している。今回、同書も合わせ読み、この人物について知ったことは数多い。
谷は、西南戦争に際して熊本鎮台(熊本城)攻防戦を指揮して政府軍を勝利に導いた軍人として知られる。私もそのこと以外では、陸羯南の新聞『日本』のスポンサーだったという程度の知識しかなかった。
谷は貴族院を舞台に精力的に活動した政治家であった。議会で演説し、意見書を発表し、伊藤博文をはじめ政府の要路の人々にたびたび書簡を送った。それらは一貫して著者がいう「国民主義」に基づくものだったのである。
谷は、貴族院では曾我祐準らとともに言論や政治活動を制限する保安条例や新聞紙条例の廃止や改正を目指す活動を行う。そうした主張は、憲法の諸条項に照らして展開された。
たとえば、新聞紙条例の新聞発行停止条項については、憲法二十九条の言論出版集会自由の精神を背き、輿論に反し、憲法政治上「言語道断」であると強く批判した。著者は第八議会での谷の演説を引く。新聞紙法案として衆議院から回付された法案について、次のように発行停止の削除を求めたのである。
《此立憲政体の精神を重んじ国の進歩は人民と共に議して共に相談してやると云うの御精神ならば今日もっとも之を除くの必要なる時期》
ここに、著者は「国民主義」の根本的な主張をみる。
日清戦争から日露戦争に至る時期、「対外硬」と総称されるグループをはじめ、ロシアに対する強硬論が強くなる。こうした中、谷は一貫して非戦論を貫く。「我が地形守るに便なると共に又大陸侵入には最も不便なり」と述べ、領土拡大にも批判的だった。
しかし、日露戦争に「勝利」した日本は、列強の植民地獲得競争に参入していく。しかし、谷はこうした流れにも抗した。明治39年、「戦後の軍備に就て」という文章で次のように述べている。
《我輩が思うに、我国民が戦争をするなど云う観念を持つて居るのが、大に間違つた事である。……我国戦後の最大急務は、決して師団を増設することでもなければ、海軍の拡張を計るのでもない。経済的発展則ち商工業の発達を企図するにある。……如何に軍隊計り強大になつた所で、課税誅求や借金の為めに、国民一般が疲弊して饑渇に泣くと云うが如き状態に陥つたならば、到底国家の強大を来すことは難い》
明治44年5月13日、谷は没した。明治天皇が死去する1年2カ月前である。
いま私たちは「国民主義」をどう語ればいいのか。「国家と国民全体の利益(公共の利益)」と言っても、問題は明らかにその先なのだ。明治とともに、《「国民主義」の時代》も遠いということか。
いや、そうではないだろう。《「国民主義」の時代》を一つの時代足らしめた要素は、「国家と国民全体の利益(公共の利益)」をめぐる真摯な言論ではなかったか。谷が貴族院で行った演説や意見書などがその典型である。《「国民主義」の時代》は過ぎ去って久しい。だが、明治日本の経験から私たちが学ぶものは少なくない。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください