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[書評]『水都ヴェネツィア』

陣内秀信 著

松本裕喜 編集者

昔も今も人を魅了する水の都  

 ヴェネツィア(ヴェニス)に行かれたことはあるだろうか。私は30年ほど前に初めて行って、とにかく驚いた。ラグーナと呼ばれる浅瀬の海の上に、時代を経た華麗な様式建築がそびえ立ち、数百年タイムスリップしたような景観が広がっていたからである。まるでお伽の国にさ迷いこんだような気がした。

『水都ヴェネツィア——その持続的発展の歴史』(陣内秀信 著 法政大学出版局) 定価:本体4000円+税拡大『水都ヴェネツィア――その持続的発展の歴史』(陣内秀信 著 法政大学出版局) 定価:本体4000円+税
 本書は1970年代前半にヴェネツィア建築大学に留学、その後もイタリアの建築史・都市史を専門に、ヴェネツィアと東京・アジアの都市などを「水都」として比較・研究してきた著者の、ヴェネツィア研究の総仕上げといってもよい本である。

 都市ヴェネツィアの誕生からイスラム世界と西洋をつなぐ交易都市としての発展、海と運河を巧みに活用した水の都の都市づくり、そして環境都市としての現在までが一望できる本なのだ。

 なぜ水の上にこんな街ができたのだろうか。ヴェネツィアはラグーナ(浅い内海)に点在するヴェネツィア本島、リド島、ムラーノ島などの島々からなり、本土から島に移り住んだ人々が教会を建て、小さな集落を築いていった。

 ラグーナには深浅があり、船は深い部分(水の流れる運河)を航行しないと座礁してしまう。物資の輸送を水運に頼った時代、ヴェネツィアは街の隅々にまで小運河(リオ)を張り巡らし、ラグーナという天然の要塞に守られた水上都市として繁栄していったのである。

 中世のヴェネツィアはオリエントとイタリアやヨーロッパ各地との物資をやり取りする中継貿易の拠点として栄えた。ワイン、オイル、小麦、香料などが主な商品だった。そのためカナル・グランデ(大運河)に沿ってドイツ人商館、ペルシャ人商館、トルコ人商館などの商館建築が立ち並び、11世紀の末にはリアルト橋の近くにイスラム都市のバザールのようなリアルト市場ができた。小さな店がぎっしりひしめきあう商業空間である。

 ヴェネツィアの都市の歴史を知るためには、3章の「地図の表現法にみる都市のイメージの変化」、8章の「都市図における表現法の変遷」がわかりやすい。1486年の木版画では海のなかに屹立するヴェネツィアの建築群がくっきりと描かれ、1500年出版の鳥瞰図を見ると、サン・マルコ広場を正面にしたヴェネツィアの街並みをカナル・グランデが西から東へ逆S字型に横切り、海上には多くの帆船が停泊している。

 ヴェネツィアの建築の面白さは、古典やルネサンス、バロック様式の荘重な西洋建築と、ビザンツやイスラムの装飾的な建築様式の建物が共存する景観にある。私が「お伽の国」に来たように感じたのにも、それなりの理由があったのだ。

 ヴェネツィアの表玄関サン・マルコ広場は、16世紀初めには、サン・マルコ寺院、総督宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)、図書館、鐘楼(カンパニーレ)などに囲まれた現在の姿ができ上がった。ルネサンス理想都市の広場の一つの典型だと著者はいう。1797年にこの地を占領したナポレオンは、世界で一番美しい広場と絶賛したらしい。

 この広場は共和国の政治の中心としてパレードやセレモニーの行われる儀式的空間であるとともに、カーニバルや仮面舞踏会、見世物、花火などのスペクタクルが催される祝祭空間でもあった。

 16世紀の絵には、鐘楼から沖合に浮かぶ船までの「トルコ人の綱渡り」の場面や、広場のすぐ先の水辺を移動する世界劇場(船で牽引される仮設の劇場)の姿も描かれている。著者はそこに、世界は劇場であり、都市は劇場であるという世界=都市=劇場の発想を読みとっている。

 シェイクスピアの『ヴェニスの商人』『オセロ』もこの街が舞台なのである(『お気に召すまま』には「世界はみな舞台、男も女もみな役者にすぎぬ」の台詞もある)。ヴェネツィア共和国以来の海(アドリア海)と陸(サン・マルコの広場)をつなぐ壮大な祝祭「海との結婚」の儀式はいまも続けられている。

 16世紀以降オスマン帝国の台頭、大航海時代の到来とともにヴェネツィアは海洋国家の地位を失い、1867年にはイタリアに併合されるが、そうした歴史的変遷のなかで、よく現代まで海上都市の姿を保ってきたものである。いまのように大衆が旅行できる時代ではなく、観光だけで街を維持できたとは思えないからだ。

 ヴェネツィアの普段の交通手段はヴァポレット(水上バス)である。この水上バスで、ヴェネツィア・ビエンナーレの会場へ、ヴェネツィア映画祭のリド島へ、ガラス工芸のムラーノ島へ簡単に行ける。陸上には自動車はおろか自転車もない。ひたすら自分の足で歩くしかない。建物の脇や裏手には、いたるところに迷路のような路地がある。こうした路地歩きもヴェネツィアの楽しみ方の一つであろう。

 15年ほど前、マルコ・ポーロ国際空港から水上タクシー(モーターボート)でヴェネツィア(本島)へ入ろうとしたとき水上警察にとめられた。スピード違反だったそうで、運転手は違反切符を切られている。水の上でもスピード違反があるのかとびっくりしたが、本書によると、運河沿いの建物の基礎を守るためボートが波を立てないよう速度制限がかけられているのだそうだ。

 近年のヴェネツィアは、アックア・アルタ(高潮による冠水)に悩まされつつも、役割を終えた修道院や工場、倉庫を文化施設や大学のキャンパス、ホテルに再生するなどして、水辺の空間を生かした環境都市を目指しているという。

 ヴェネツィアの都市の歴史を知るには格好の本である。トーマス・マンの『ヴェニスに死す』、また木村二郎の『ヴェニスを見て死ね』(創元推理文庫)という推理小説もある。物は試し、一度はこの海の都を訪れてみられてはどうだろうか。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

松本裕喜

松本裕喜(まつもと・ひろき) 編集者

1949年生まれ。40年間、三省堂で書籍を編集。主な仕事に建築・都市をテーマにした『日本の建築明治大正昭和』(全10巻)、『都市のジャーナリズム』や、歴史・思想ジャンルの『江戸東京学事典』『戦後史大事典』『哲学大図鑑』『心理学大図鑑』など、また言葉・詩歌がテーマの『一語の辞典』『新明解故事ことわざ辞典』『三省堂名歌名句辞典』などがある。2013年退職後、俳句雑誌『鬼』編集長。本をじっくり読むのが、強み、読むのが遅いのが、弱点。