苅部直 著
2017年06月08日
本書の帯には、「『明治維新=文明開化』史観をひっくり返す!」とある。
『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』(苅部直 著 新潮選書)
その意味で江戸時代後期と明治時代には断絶でなく連続性があることを、数々の事例と最新の研究成果を踏まえつつ説き明かしたのが本書だ、と言うことができる。
ただしここで、「文明」の語が孕む多義性については注意を払う必要がある。序章で、サミュエル・P・ハンチントン、マイケル・イグナティエフ、マイケル・ウォルツァーといった現代の論客が「文明」をめぐって交わす言葉を紹介し、対立し衝突しあうものとしての「文明」ではなく、「多様な文化を貫ぬいて共通に善とされるような、普遍的な」要素を持った「文明」のほうに読者の注意を差し向けるところに、著者ののっぴきならぬ意図が示されているだろうからだ。
2つの世界大戦と冷戦を経験し、さらに「文明」同士の対立が悲惨なテロを誘発し続ける21世紀の現代に生きる私たちは、すでに、疑いを持たずたんに「よきもの」として「文明」を見なすことはできない。
著者は、そうした「文明」の負の側面に自覚的であり、それでもなお、あえて「文明」を求めた19世紀日本人の意識・心性を探る。「よきもの」であることが疑われていなかった時代の「文明」への視線が、「異文化どうしの理解と共存を進めるために、意義深いモデル・ケースになる」、つまり現代世界にとっての普遍(あるいは共通の善)とは何かを考える手だてにもなるからである。
著者によれば、18世紀以降の日本社会で起きたさまざまな変化が、「文明」を求める意識の誕生を後押しした。
この時代、商人の町大坂の繁栄をきっかけに経済が発展し、競争が生まれる。大坂には町人の学校である懐徳堂【かいとくどう】ができ、理を追求し対等な討論を重んじる思考が浸透していく。これは身分の上下を重んじる武士の発想にはない思考であり、さらに西洋の学問(天文学など)も輸入されたことで(8代将軍吉宗による漢訳洋書の輸入解禁)、歴史のとらえ方における大転換――儒教が唱える尚古主義に代表的な循環型(古代に理想を置く)から不可逆的かつ進歩史観的なものへ――が起こる。
日本のヴォルテールと呼ばれる富永仲基(1715~46)、市場の自由放任を説いた商人にして儒者の山片蟠桃(1748~1821)、『稽古談』の著者で旅する自由人・海保青陵(1755~1817)らの事績に着目し、彼らに見えた「普遍を目指す精神」がていねいに拾い上げられる。
経済人ばかりではない。『町人嚢【ぶくろ】』を著した商人・西川如見(1648~1724)、本居宣長(1730~1801)、太宰春臺(1680~1747)、頼山陽(1780~1832)、會澤正志斎(1782~1863)、横井小楠(1809~69)ら学者や儒者においても高まる「文明」への意識が確認される。
さらに、ハンチントンやウォルツァーに限らず、ルソーやカント、デカルト、アダム・スミス、マックス・ウェーバーといった人たちの論を差し挟み補足する各章の記述には、19世紀日本の知識人を外側から眺め、あくまで現代的観点から「普遍」を問う姿勢が感じられる。
なかでも新鮮だったのは、本居宣長を論じる際、18世紀ヨーロッパに理想を見出した吉田健一を引き合いに出した箇所。丸山眞男論文「歴史意識の『古層』」が頼山陽『日本外史』を重視したことの意味を論ずるくだりは、著者の面目躍如か。
読後改めて本書について考えたとき、飛躍するが、解剖学者・養老孟司の言葉を思い出した。明治ではなくすでに江戸時代から、「自然」としての「身体」が社会から排除されるようになった。それは社会の人工化、都市化(本書の著者の言葉では「文明化」だろう)が進んだからだ、という言葉だ(『日本人の身体観の歴史』法蔵館書店、日経ビジネス人文庫)。江戸と明治の連続性という点では本書と共通しまいか。
いっぽうで、夏目漱石の有名な、西洋の開化は「内発的」だが日本の開化は「外発的」で上滑りだ、という言葉(『現代日本の開化』)も思い出した。日本の開化に「内発的」要素があったと述べる本書は、その意味で漱石の言への挑戦とも受け取れるか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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