高橋順子 著
2017年06月19日
この世には、ときに奇蹟のような夫婦が存在する。『夫・車谷長吉』こそは、そんな類い稀な愛の日々を描ききった傑作である。
才能あふれる夫婦の物語のはずなのだが、読んでいけばわかるように、ハイブロウなインテリ夫婦の姿はどこにもない。描かれているのは地方出身の、地味な中年の男と女だけだ。
男は慶應義塾大学卒業、広告マンから編集者に転身し、知的エリートを標榜していた。しかし何年にもわたって女性に振られまくり、孤独な魂をこじらせたあげく、華やかなマスコミ業界を棄てて、日本国内を流浪するに至る。具体的には、はぐれ板として包丁1本で勝負していたのである。
人生を棒に振ったことを意識しながら、身を切るような私小説に活路を見いだし、中年になってから上京、背水の陣で小説を書きはじめた。
女は東京大学卒業、大手出版社で編集者としてのキャリアをスタートさせた。しかしエリート医師との不幸な恋にやぶれ、小さな人文系の出版社に移り、さらにそこも辞めてひとりで詩の出版社を始める。友人知己の自費出版を請け負いながら、詩を書くことに生きる光を見いだそうとしていた。
ふたりが出会ったのは40代後半のころだった。筆者は個人的に、独身時代の彼らを知っているが、外見上の容姿はともに素晴らしく魅力的であった。
しかしふたりとも、内面には、ただならぬものを抱えていた。男の性情はエキセントリックに過ぎた。過去のすさまじい失恋を引きずっているのか、異性を(いや同性をも)峻拒する雰囲気が濃厚にあった。女もまた内向的で引っ込み思案であり、異性に対する怯えの気配が所作に漂っていた。
異性に縁がなく、独身のまま大都会の片隅で生涯を終えるかと周囲に思われていた、若くもなく金銭的に豊かでもない男と女。彼らはおずおずと、警戒するジャブを頻繁に出しながら、ちょっとずつ接近してゆく。
やがて彼らは、おたがいのなかに、自分の欠けたピースがあることに気づく。大失恋を経た女は、ゆるやかに挫折してゆく自分を意識していたが、男の文学に賭けるやけっぱちの情熱に驚愕し、衝撃を受ける。他方、棄てるものはないほどに惨めな青春期を経てきた男は、かつて出会ったことのない、女の極上の知性と上品さと美貌に恋い焦がれる。
いつしか引かれ合ってゆくが、彼らが交際に至るまでの、手続きのもどかしさといったらこの上ない。作家であり詩人である以上、仮想的な恋愛のシミュレーションは数限りなく経験していたはずなのに、あまりに不器用すぎる。男は絵手紙を延々と出し続けながら、女をデートに誘う勇気がなく、女のほうも警戒心を解くことはない。こんなふたりが交際を開始して、結婚するまでの過程は、まさに最高のロマンス小説である。
結婚したのちの、男の狂気に端を発する苦難の日々には恐ろしいものがあるが、ポイントは男と女が、どんな苦境にあってもけっして離れなかった、というところにある。
孤独のつらさをハカリにかければ、生活のために別れようという瞬間が訪れることはない。男が、身過ぎ世過ぎを支える会社をクビになっても、夫婦で校正の下請け仕事をこなし、都会の片隅でひっそり生きていくふたりなのであった。そして、直木賞が舞い込み、順風満帆な日々が訪れたのだが……。
男だけが突然死んでしまった。
妻である女は、突然いなくなった夫である男のことを、みずからの日記をもとに懐古してゆく。それがこの書き下ろしの本なのだと、読みながら読者は理解するだろう。存在しなくなったことで、思い出は美しく加工されたようだ。男の鼻水やしわぶきや悪態も、立ちションベンも野糞も開けっ放しの社会の窓も、すべて日記のまま、ありのままに書かれているはずなのに、妻の記述はあまりにいとおしすぎる。
この本を著者が書き始めた頃と思われる2016年7月、神保町のOKIギャラリーで、車谷長吉三回忌として車谷長吉・高橋順子夫妻の墨書展が開催された。本書の担当者である文藝春秋の編集者の田中光子氏もおられたと記憶している。
そのとき、印象深かったのは著者の次の言葉。「幽霊でもいいから出てきてください、とお願いして呼びかけても、出てきてくれないのね」。これぞ、わたしの半世紀を超える人生で体験した、最高のラブコールであった。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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