川上未映子 村上春樹 著
2017年07月24日
川上未映子が村上春樹に、連続4回にわたってインタビューしている。最初のものは『職業としての小説家』(新潮文庫)の刊行を記念して、残りの3回は、『騎士団長殺し』(新潮社)が完成したので、それをめぐってである。
『みみずくは黄昏に飛びたつ――川上未映子訊く 村上春樹語る』(川上未映子 村上春樹 著 新潮社)
「村上 バブルの崩壊があって、それから神戸の地震があって、3・11があって、原発の問題があった。それらの試練を通して、僕は、日本がもっと洗練された国家になっていくんだろうと思っていたわけ。でも今は明らかにそれとは正反対の方向に行ってしまっている。それが、僕が危機感を持つようになった理由だし、それはなんとかしなくちゃいけないと思う」
そこでフィクションを書くこととは別の、「具体的なステートメント」を発する必要が生まれてくる。しかしそれをどういう形でするかはけっこう難しい。だからこのインタビューも、その試行錯誤の一環なのである。
村上はここでは、いろいろ手の内をさらけ出している。例えば主人公の年齢について。
「村上 僕が主人公として書きたいのは、基本的には普通の人なんです。通常の生活感覚を持った人。しかもいろんな意味あいで、まだ自由な立場にある人。誰しもある程度の年齢になってくると、いろいろ現実がつきまとってくるでしょう。でも、三十代半ばぐらいだと、まだ……」(第二章)
しかしこの点については川上未映子が、村上春樹の主人公の変遷をめぐって、ことこまかに追及している。今回の『騎士団長殺し』の主役は、30代半ばにしては目が肥えすぎているんじゃないか、と。
「――例えば『私』は、免色さんの家に招待されたときに、出された皿が古伊万里だとすぐにわかるんですよね。室内に置かれてあるものを目で追っている描写を通じて、ものの価値がよくわかっているという感じがする。……多崎つくるさんぐらいから、だんだん富裕層の雰囲気が出てきています。今回の三十六歳の『私』も、お金は持っていないかもしれないけれど、パッと車に目がいく、調度品に目がいく、絨毯、食べ物にも……みたいな感じで、目が肥えているというか、いろんなものの価値を知っているんだなと」(第四章)
これは村上春樹の主人公の変遷についての、じつに的確な評である。どうやら村上は、30代半ばの男を主人公にするには、ちょっと歳を取りすぎてしまったのではないか。そしてその結果、川上未映子は、見ようによっては痛烈な一撃を喰らわすのである。
「今回の『私』は女性で言うと『家庭画報』とか『ミセス』とかを定期購読してる感じというか。男性誌ではちょっと喩えがわからないんですけど」(第四章)
『家庭画報』や『ミセス』を読んでる男のうんちく話を、えんえん聞かされるのはやはりどうも、退屈の極みであるというほかない。
けれども僕は、主人公のうんちく話を聞かされるのは勘弁である、と言うふうにはならない。退屈の極みだからといってこれを端折ると、『騎士団長殺し』の本当の醍醐味がわからなくなる。
そのことを村上春樹は、もう少し一般的なこととして語っている。
「村上 ……手を抜いて書かれたものは、長い時間の中ではほとんど必ず消えていきます。僕らは時間を味方につけなくちゃいけないし、そのためには時間を尊重し、大事にしなくちゃいけない」(第二章)
『騎士団長殺し』の本質については、川上未映子が実に端的に、簡潔な言葉で述べている。
「ウィーンで本当は何があったのか、それはもちろん明確にされないし、言葉にできるようなものでもないんだろうけれど、最期に彼は、何かを見届ける。騎士団長が殺されるところを、本来そうあるべきだったものを見届けたときに、微笑みを浮かべます。一つの救いが、そこで書かれます」(第二章)
これが『騎士団長殺し』の最も鮮やかな要約である。そして僕は、「もちろん明確にされないし、言葉にできるようなものでもない」というところを、それでもなお言葉にしてほしいのだ。
本書の第四章で、川上未映子が「自分の死」というテーマを挙げている。それに対し村上春樹は、死というものはただの無で、「ただの無というのも、どんなものか見たことないからね」と言い、あまり真面目に考えようとはしない。しかし川上未映子は、「でも確実に死ぬ。いったい何がどうなっているんだか」と、食いさがろうとする。ここは川上の、哲学少女の片鱗が剝き出しになる。
それに対する村上の答えが、まことに秀逸である。
「村上 でも、実際死んでみたら、死というのは、新幹線が岐阜羽島と米原のあいだで永遠に立ち往生するようなものだった、みたいなことになったらイヤだよね。駅もないし、出られないし、復旧する見込みは永遠にないし(笑)」
僕は思わず噴き出した。同じ村上春樹でも比喩の次元が違う。底の抜け方が、ここだけとてつもなく深いというか、バカバカしいのだ。
川上未映子もしょうがなくて、というよりも同じ関西人同士、思わず受け答えにはずみがつく。
「――それは最悪(笑)」
そういう川上を受けて、ますます乗りまくる関西人・村上春樹。彼はこう答える。
「村上 トイレは混んでるし、弁当も出てこないし、空調はきかないし、iPhoneのバッテリーは切れて、手持ちの本は全部読んじゃって、残っているのは『ひととき』だけ。考えただけでたまらないよね」
それに対する相方の、川上の押さえも冴えたものだ。
「――大丈夫、もう一冊『WEDGE』がある(笑)」
やっぱり関西人同士だと、死の哲学の探究はできまいなあ。
この最終章の終わりのところで、村上春樹の「善き物語」に対する全幅の信頼が語られる。そのとき「邪悪な物語」の典型としては、たとえば麻原彰晃の物語があり、その中では徹底的に囲い込み、閉鎖されたところで、多数の人が殺される。
「村上 そういう回路が閉鎖された悪意の物語ではなく、もっと広い開放的な物語を作家はつくっていかなくちゃいけない。囲い込んで何か搾り取るようなものじゃなくて、お互いを受け入れ、与え合うような状況を世界に向けて提示し、提案していかなくちゃいけない」
村上が、それは神話の時代から連綿と人々が紡いできた物語で、それは今もあるし、また有効であるというのに対し、川上は、あたかも一般的であるかのようにして、疑問を呈する。
「――神話や歴史の重みそれ自体が無効になっているとは思われませんか、村上さん。それらが保証する善性のようなもの、それ自体が」
それに対し村上は、言下に否定する。
「村上 全然なってない」
これは物語を作る作家としては当然のことだが、しかし実は、これをはっきり言ってはおしまいなんじゃないかと思う。常に心の中で、神話や歴史、物語の重みがすでに無効になってるんじゃないか、という恐れを抱いていなければ、そしてそういう恐れに対し、いやそうではないんだという葛藤を抱えていなければ、いけないんじゃないか。それが川上未映子の、無言の問いかけではないだろうか。
それ以外にも、この本には考えさせられるところが、数多ある。村上春樹は、基本的には受けた球を返しているだけ、リードするのは常に川上未映子である。
たとえば川上は、村上の物語は「地下二階で起きていること」(第二章のタイトル)だという。地下1階には自我の物語があり、それは今ではよく知られていることだ。しかし地下2階には、それではすまない、いってみれば河合隼雄のいう、集合無意識のレベルの物語があるという。
これはよくできていて、うむ、なるほどと、つい首肯してしまうけれど、しかしよく考えたほうがよい。これを前提にすると、村上のいう、現実にはあり得ないことでも、物語としてはあり得るという言葉に、自信というか、信用を与えることになる。
たとえば「秋川まりえ」が、「免色」の家に忍び込んで、クローゼットに隠れているとき、扉一つ隔てて何者かが彼女と向かい合う。これはどうやら、「免色」ではない。しかしそれでは、誰もいないところで「秋川まりえ」と相対している、何者かがいることになる。
こういうのは、リアリズムでは何が何だかわからないんだけど、物語としてはとてもよくわかると、村上はいう。村上春樹がそういうんだから、本当にそうなんじゃないか、と信用しそうになるが、そして川上も、それはよくわかると同意するが、本当にそうか。
また村上は、小説を書くときにはノープランで、いちいちこれはこういうことである、という頭による解釈を捨てて書くという。川上は、それがちょっと信じられなくて、こういうふうに尋ねる。
「――それが村上さんの小説にとって大切なことであるのはわかるんですけれど、でもそれはそれとして、実はこれが何を表しているとか、そのつながりが本当はこういう意味なんだ、みたいなこと、村上さんの中にはない?」
それに対して、村上はこういうふうに答える。ここにこそ、村上春樹の村上春樹たる点がある。
「村上 ない。それはまったくないね。結局ね、読者って集合的には頭がいいから、そういう仕掛けみたいなのがあったら、みんな即ばれちゃいます。あ、これは仕掛けてるな、っていうのがすぐに見抜かれてしまいます。そうすると物語の魂は弱まってしまって、読者の心の奥にまでは届かない」
これはもう、本当にそう言うしかあるまい。しかしそれを、作者がしゃべっていいものか、という疑問も残る。こういう本の企画なんだから、そういうことをしゃべらなければ、ほかにどんなことをしゃべるのか。まあそういうことだが、そうすると、ミネルヴァの梟は、物語の後では、本当に飛ばしてよかったのか、という疑問が、僕には最後まで残る。
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*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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