小川洋子 著
2017年07月24日
本欄ではこれまで、フィクションは対象から除くという内々の決まりがあったが、諸事情によりその縛りが解かれた。
そこで早速その口火を切ってみたいのだが、ここでもうひとつのルール――扱うのはおおよそ3、4ヶ月以内に刊行された新刊に限る――を破ることをお許し願いたい。
本書の刊行はほぼ半年前で、いま書店に平積みされているものには〈新聞五大紙はじめ60超の紙誌でも絶賛、はやくも4刷!〉という惹句が踊る帯が巻かれている。すでに世評高く、売上実績もある本について何をいまさら、と思われる向きもあるかもしれないが、それには相応の訳がある。
おそらく本書はここ数年に1冊――いや、10年単位のスパンで考えてもいいのだが――の、日本文学における最高の成果である。
そのことを30年ほど前「海燕」新人文学賞を受賞して以来、最初の担当編集者としてお付き合いしてきた身から、是非ともここで報告しておきたかったからだ。
本書は正確な意味での連作短編集である。
全部で10ある短編のひとつひとつには、著者がどこかで心に留めた人物、ヘンリー・ダーガー、グレン・グールド、エリザベス・テイラー、そして牧野富太郎など。あるいは実在した事象――それは「放置手紙調査法」だったり「世界最長のホットドッグ」だったり、なかには「バルセロナオリンピック男子バレーボールアメリカ代表」なんていうのもある――が核として提示されている。
が、その核にどのような作用が働いて、どのように結晶をまとったのか、読者には一切不案内である。
いったいそれがテーマにどう関係するのか、果たして小説のモチーフになりうるか、それさえも最初はあやしく感じられる。
ところがゆっくりと一編を読み終え、末尾に付された著者の筆になるその核についてのコメントを合わせ読んだとき、読者はまぎれもなく〈それ〉について書かれた小説だと、ある感動をもって納得させられるのだ。
優れた連作短編集の例にもれず、本書も各短編間にひとつの流れがある。その流れにおいて、ある種クライマックスを成しているのは、第7話の「肉詰めピーマンとマットレス」だと思う。
立派に育って外国の地に学ぶ子を、母親が訪ねていくという筋のこの短編の核となっているのは、前述した「バルセロナオリンピック男子バレーボールアメリカ代表」である。そしてその核のみならず、「肉詰めピーマン」にしても「マットレス」にしても、それぞれがもっとも遠くに位置する星座のごとく、ぽつんと孤独に置かれている。
しかし、吟味され、選び抜かれた言葉のひとつひとつ、正確に紡がれた文章の一行一行が響きあい、化学反応を起こすことで、それら星座の間に思いもよらない「橋」が掛けられる。
するとそこに、子をもつ親ならば誰もが隠し持っている「回収不能の後悔」という普遍的なテーマが浮かび上がる。
そうして空港で子と別れるラストシーンにようやく現れるバレーボールの選手たち……審判の判定に抗議して全員丸刈になった恐ろしく背が高い選手たちの間にうずくまり号泣する母親の姿に、読者は何の齟齬もなく胸を打たれるのだ。
作者はこれまでどの作家も取らなかった方法をもって人生の不思議を描くことに、見事に成功している。
その成果を前にして思い起こすことがひとつある。
あれは小川さんの「海燕」新人文学賞受賞が決まった選考会の当日。最初にも最後にもたった一度だけ選考委員を引き受けてもらった色川武大さんを乗せて、タクシーで会場の山の上ホテルに向かっているときだった。担当だった気安さもあり、どの作品がいいと思うかを尋ねると、少し躊躇してから、小川さんの「揚羽蝶が壊れる時」を挙げた。
そして果たして選考会ではその作品が選ばれた。未熟な新米編集者としては、根拠のない誇らしさに胸躍らせたものだった。
その色川さんに「遠景」という名短編がある。「御年さん」という、どことなく薄倖な人生を送って早世した叔父さんのことを、書簡を用いて描いた小説だが、本書の最終話「十三人きょうだい」に出て来る「サー叔父さん」という人物が、どことなくその御年さんを彷彿とさせるのだ。
もちろん2人の作家の小説作法に共通項は少ない。けれどもゴルフにたとえていえば(お二方ともゴルフとは縁遠いけれど)、予想だにしなかった方角から飛んできたショットが同じグリーンにオンしてしまったような……それもあの世とこの世がないまぜになったグリーンの上、そのショットを放ったゴルファーに遭遇して、驚いたような、照れているような笑みを浮かべる色川さんの顔が目に浮かぶ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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