キリスト教を徹底的に内在化していった時代
2017年07月18日
歴史についての卓越した論考を読む楽しみは、読む者に刷り込まれた「常識」=「思い込み」を、鮮やかに覆してくれるところにある。そうした論考は、「歴史」を決して事実の羅列や単なる記述として見るのではなく、明確な問題意識をもって人類の営為をつかみ取ろうとする努力によって、生み出される。
先行する「中国篇」「インド篇」「イスラーム篇」で詳しく辿られるように、〈世界史〉は、西洋以外の地域が先行する。政治・経済・軍事・学問・芸術、どれをとっても、西洋は後進地域であった。それが、ある時期逆転する。一体何故か?
大澤は、その理由をイノベーションへの適応力・親和性に見る。そして、中央集権的でありかつ分権的であるという性格が、西洋にイノベーションへの親和性をもたらしたと考える。一方、中国やイスラームの、西洋に先立った世界帝国の成立を可能にした中央集権的なその性格こそが、それらの地域のイノベーションを、押しとどめてしまったのだ。
人びとの生活様式に変化をもたらす大きなイノベーションに対して、固定的な中央集権的権力は、必ず警戒的・拒絶的な姿勢をとるからだ(インドは分権的であったが、全く中央集権的ではなかった。そこにも大きなイノベーションは生まれない)。なぜひとり西洋のみが、中央集権化を指向する原理と多元性へと向かう原理の双方を持てたのか?
今年3月に刊行された、単行本化5冊目の『〈世界史〉の哲学 近世篇』(講談社)は、いよいよその謎の本丸に突入する巻と言える。なぜなら、近世以降の西洋の歴史こそ、われわれの精神や骨肉に直接連なる歴史だからである。
言い換えれば、それ以前、或いは西洋以外の歴史は、「われわれの歴史」にとって「他者」なのだ。それゆえ、西洋近世は、後続の近代との連続/先行する中世との断絶が強調されるのが通例である。
だが大澤は、近代以降の西洋の覇権の謎を解く鍵は、むしろ中世と近世の連続にあると説く。
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