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片渕監督講義『この世界の片隅に』暮らしと戦争1

「昭和18年秋まで女性はスカートを履いていた」

叶精二 映像研究家、亜細亜大学・大正大学・女子美術大学・東京造形大学・東京工学院講師

映画「この世界の片隅に」〓こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会映画『この世界の片隅に』=こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
 昨年(2016年)最も高い評価を獲得し、あらゆる賞を総ナメにしたアニメーション映画の金字塔『この世界の片隅に』。11月12日の小規模公開から実に7カ月後の6月16日には観客動員200万人を達成し、今も日本各地で上映が続いている。一般の劇場はもとより、夏休みに戦争について考えようと地域の公民館やホール上映も増えている。戦時下の日本を学ぶ教育の一環として授業で鑑賞する学校も散見される。作品の影響力は未だ拡大を続けている。

「当時の人々との繋がり」が実感出来る理由

 原作者のこうの史代氏は緻密なリサーチによって、戦中の市民生活のリアリズムを構築して漫画化した。片渕須直監督はその志を受け継ぎ、舞台である広島県呉市ひいては日本社会全体が一体どうであったのかを、更に徹底的に調べ上げて演出に臨んだ。

映画のために収集した膨大な書籍で埋められた書棚の画像を前に語る片渕監督映画のために収集した膨大な書籍で埋められた書棚の画像を前に語る片渕須直監督
 映画は広島市に育った主人公・浦野すずの少女時代の昭和8(1933)年12月の前日譚で幕を開け、昭和18(1943)年12月の隣町・呉市の北條家への嫁入話へと物語が展開する。

 登場人物たちは悪化する戦局の中での暮らしを生き抜き、やがて敗戦を経て昭和21(1946)年1月に物語は一旦幕を閉じる。そして、さらにエンディングロールでその後の日々が描き続けられる。

 その間、当時の人々は何を考え、どんなものを着て、どんなものを食べ、どんな街に暮らしていたのか。

 「現在の日常と遠く離れた過去」として片付けてしまえば、細部はないがしろにされ、その真実は見えて来ない。一つ一つディテールの検証を積み上げた表現によって、昭和18年から昭和20年の暮らしが少しずつ霧が晴れるように見えて来る。

 呉市が戦略爆撃を受けた7月1日の深夜も、広島市に原爆が投下された8月6日の朝も、攻撃される瞬間までそこに暮らす人々にとっては「普通の一日」だったはずだ。どんなに悲惨な被害にあっても、日々は待ってはくれず、暮らしは連綿と続いて行く。それは平和な現在の日本であっても変わらない。

 この映画にはそうした「我々と当時の人々との繋がり」を実感出来る瞬間が幾つもあり、それは手描きのアニメーションならではの温かな筆致で描き出されている。本来は絵に描かれることで舞台も人々の暮らしも情報が削ぎ落とされ抽象化されるはずだが、逆により強い臨場感が生み出されている。我々観客は、映画を通じて当時の人々と出会い、暮らしを共にしたような感覚になる。それは、調査と実証によって霧が晴れた場所に、卓越したアニメーションの演技力・再現力が加算された結果と言えよう。

 以下は、昨年12月13日、筆者による早稲田大学での講義「アニメーション概論」内で行われた片渕須直監督特別講義の一部載録である。片渕監督がどのようにして当時の人々の暮らしを皮膚感覚で捉えるに至ったか、その過程の一端を知ることが出来る貴重な内容だ。

 今年72年目を迎えるヒロシマ・ナガサキの原爆の日を目前にして、今改めて片渕監督の言葉から当時の暮らしに思いをめぐらせ、『この世界の片隅に』の意味を噛みしめてみてはいかがだろうか。 (構成・載録/叶精二)

片渕須直(かたぶち・すなお)
1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中に宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。『魔女の宅急便』(1989年)では演出補を務めた。TVシリーズ『名犬ラッシー』(1996年)で監督デビュー。監督・脚本作品に『アリーテ姫』(2001年)、『BLACK LAGOON』(2006年)、『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)など。1998年の短編『この星の上に』でザグレブ国際アニメーション映画祭入選。2002年、『アリーテ姫』で東京国際アニメフェア長編部門優秀作品賞を受賞。2009年、『マイマイ新子と千年の魔法』でオタワ国際アニメーション映画祭長編部門入選。2016年、『この世界の片隅に』で第40回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞、第90回キネマ旬報ベスト・テン日本映画第1位・日本映画監督賞、第71回毎日映画コンクール日本映画優秀賞・大藤信郎賞、第59回ブルーリボン賞監督賞、第41回アヌシー国際アニメーション映画祭長編部門審査員賞、第67回芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞した。

映画『この世界の片隅に』公式サイト ※2017年9月15日(金)Blu-ray・DVD発売決定
映画『この世界の片隅に』片渕須直監督に聞く――空を見上げて生きる普通の暮らしの愛おしさ(WEBRONZA)

ゴム長靴が「すてきな決戦服」となった理由

 アニメーション映画監督の片渕です。今日は『この世界の片隅に』という映画を作ろうと思った動機の根っことなった部分を中心にお話ししたいと思います。

マンガ「この世界の片隅に」上巻(双葉社)こうの史代『この世界の片隅に』上巻(双葉社)
 こうの史代さんによる原作漫画は、特定の場所や時代をあえて明示せずに始まります。冒頭に「冬の記憶(9年1月)」と記されていますが、年号が「平成」だか「昭和」だか分からない。舞台は日本のようだが、主人公の少女の幻想のようにも思える話で、どこの街なのかはっきりとは分からない。しゃべっている言葉は広島弁らしい……。実は、連載前に読み切り短編として3回、物語の前日譚が描かれているんです。そして、連載第1回は「18年12月」というタイトルになっています。これは『漫画アクション』という週刊誌にほぼ隔週ペースで描かれました。

 連載の1ページ目に、のりを収穫して干している主人公の少女・すずさんと妹のすみちゃんがこういう会話をしています。

 「どうね この胴長靴の着こなし」
 「あら すてきな決戦服ですこと」

 「決戦服」というのは尋常でない言い方です。彼女たち姉妹はズボンですが、横にいる千鶴子という少女は和服の生地で作った「モンペ」を履いています。戦争中なので、社会的要請としてこういう格好をしているんですね。その上に冷たい海で仕事をするためのゴム長を履いているので決戦服というわけです。

婦人の決戦服 向かって右が標準服甲型にモンペ 同左が乙型女性の「決戦服」の例。右が標準服甲型にモンペ、左は乙型
 つまり、このお話の時代は昭和18(1943)年12月。連載開始は平成18(2006)年12月(『漫画アクション』2007年1月23日号)でした。その後の連載でもずっとこの関係は続きます。物語の進行と読者の実時間が「昭和」と「平成」で重なって進行するという画期的な連載だったのです。では、当時の日本には何が起きていたのでしょうか。

 このお話の2年前の昭和16(1941)年12月8日、日本は真珠湾攻撃を行い、アメリカ・イギリス・オランダと戦争を始めます。さらにその4年前の昭和12(1937)年7月7日の七夕に、盧溝橋事件を契機に日本は宣戦布告もなく中国と戦争を始めていました。それが、ここでさらに拡大したわけです。

 当時の戦争にはモデルケースがありました。1914(大正3)年に始まった第一次世界大戦です。ドイツとイギリス・フランスなどを中心とした国家を挙げた総力戦でした。それまで兵隊同士の闘いで済んでいた戦争が、国が兵器の生産やら戦費の調達やらを管理し、国民を捲(ま)き込んだ全社会規模になったのです。史上初の空爆となったドイツ軍ツェッペリン飛行船団によるロンドンの戦略爆撃なども行われ、その土地に住んでいた人々は甚大な被害を受けました。その後に始まった第二次世界大戦も当然総力戦になるだろうと予想されていましたし、事実そうなりました。

 日本では、結果的に国が国民のあらゆるものを自由にしていった、その根拠となる法律「国家総動員法」が施行されました。たとえば、ある企業が戦争と関係のない仕事を請け負っていたとすると、労働力だけを引っこ抜いて、その仕事を強制的にやめさせる命令が出来るわけです。強い命令を出せる政府には権限があるんですけれど、それに対して国民が乗っかって来ないと有効に機能しません。同時に国民が戦費調達に協力してくれなければならない。つまり国債をたくさん発行したわけです。わかりやすく言うと、日本の戦争はクラウドファンディングでやっていたんですね。それを円滑にするために、国民向けに強力なプロパガンダが行われました。

寒くて仕方ないのでモンペを履いた

 「いまは戦争中だ」という意欲を高めようとするプロパガンダでまず取り組まれたのが「もともと日本は資源に恵まれていないので、いろんなものを我慢しましょう」というものです。その一環で「服装についても我慢しましょう」と。女性の場合は「華美な服装をしない。普通の着物は袖が長いが、短くても生活に支障がないので切ってしまえ」と。原作にもそのシーンがあります。「行動的になるように、スカートをやめてズボンをはきましょう。モンペという服装がありますよ。みんな着ましょうね」と宣伝したわけです。

 しかし、意外にも日本の女性たちはなかなかモンペを着ないんです。何故だと思いますか? カッコ悪いからです。当時の雑誌にちゃんとそう書いてあることなんですよ。

 写真を見ると昭和18年の秋くらいまでは、女性はみんなスカートを履いているんです。女学生も勤労動員で工場で働いていたわけですが、その学生たちも普通の制服とスカートです。男性が兵隊に取られているので、いろいろな職業を女性に充当しなければならないといって……たとえば、力仕事でない改札口の駅員さんから始まって、ついには電車の車掌や運転士まで。その省営鉄道(現在のJR)を営む鉄道省でも女子の制服が定められていました。それもちゃんとスカートでした。

 男性の場合は、「国民服令」という法律がありまして、国防色(カーキ色)のツメエリのような国民服を着なければなりませんでした。徴兵制では兵役を着る義務があるので、軍服は支給されますが、最終的に不足した場合は国民服でも良いことにしようという腹積もりだったんです。しかし、日本の女性には兵役義務はないし、特別な服を着なければならないという法律もありませんでした。ちなみに、イギリスの場合は女性も補助的な兵士になれました。エリザベス女王は18歳くらいで率先して兵隊として軍服を着ていました。主人公のすずさんはエリザベス女王と同い歳です。

 それから、当時は資本主義経済ではなくなっていて、社会主義経済のようになっていました。販売の自由がないんですね。物はあるんだけれど、ある種全員に均等に分配しようとしていました。

 着物は「衣料切符」があると買う権利がある、食べ物は配給、冬の暖房に使う薪や炭も配給。ところが、燃料の配給が滞ってしまって、余りにも日本中が寒かった。しかも新しい服も買えない。靴下や足袋も不足して、足下からとにかく寒い。仕方がないから、格好は悪いけれどモンペを履こうかと。この時期、昭和18年12月頃にそういう風に変わったんです。

 よくドラマなどで語られているように「戦争中だから御国のためにみんなそれを着るのだ!」と命令されて、「はいっ!」とみんな素直に従っていたんじゃないんです。そこまで我々と違った人間たちがそこにいたわけではなかった。こうした「戦争中の人々は自分たちとは違う」というある種の思い込み、我々が常識だと思っていたものは一回リセットしないと、当時の人々の本当の暮らしが見えて来ないのではないか。それをきちんと調べて描こうというこうのさんの意図が、連載の第1回目から感じられるわけです。

「戦時中の呉」を舞台としたこうの史代さんの想い

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