「呉からは丸一日キノコ雲が見えていた」
2017年08月04日
後半では第二次大戦末期の呉と広島の様子が語られている。中でも、昭和20(1945)年8月6日の朝に投下された広島原爆が隣町の呉からどう見えていたのか、二つの街の絆と人々の暮らしについての内容は、映画『この世界の片隅に』後半部の描写を支えたリアリティの内実が垣間見える証言と言える。
映画公開から本日(8月4日)で266日目となる。作品が投げかけた日々の暮らしの愛おしさ、それを奪う戦争というものを今一度考える契機として頂ければ幸いである。(構成・載録/叶精二)
映画『この世界の片隅に』公式サイト ※2017年9月15日(金)Blu-ray・DVD発売決定
映画『この世界の片隅に』片渕須直監督に聞く――空を見上げて生きる普通の暮らしの愛おしさ(WEBRONZA)
「片渕監督講義『この世界の片隅に』暮らしと戦争1――「昭和18年秋まで女性はスカートを履いていた」(WEBRONZA)
戦争中の日本は、国全体が統制された社会でした。それまでは、市町村ごとに消防団のようなものがあったんですが、戦中に統合して国の消防機関(警防団)として警察組織の一部にしたわけです。広島県でも、消防本部のようなものが出来て、町・村でお金を出し合って買った消防車を、重要都市だからと言って広島と呉の2箇所に集めたんですね。
翌日、広島から呉に万単位の数のおにぎりが届いたそうです。そういうことをやれという命令があったのかも知れませんが、一部では空襲で家を失った罹災者の人たちのことを思いやって救援しましょうという意識もあったと思います。戦争中は金属を兵器に使うから、家の中にある不要な金属製品は回収しましょうと言っていったん集めたんですが、集まり過ぎてしまった鍋などを罹災者に再配給するというようなこともされています。
その後も呉は7月24日、25日、28日、29日と何度も空襲の被害にさらされています。その度に隣町の広島市は何かしら支援をしていたはずです。
こうしたことは、我々が東日本大震災の時に被災者の皆さんを支援しましょうといろいろ行ったことと、意識としては似ているような気がします。社会的制度としてどれくらい強く要請されたのか、という違いはありますけれども。
昭和20年8月6日、朝8時15分に広島に原爆が投下されました。「ピカッ」という光の後に、「ドンッ」という衝撃波があった。いわゆる「ピカドン」です。「ピカッ」というのは単なる閃光だけでなく、様々な放射線・熱線も含まれています。爆心直下にいた人たちは、一瞬にして人体が黒こげになったわけです。
「ピカッ」の光速と「ドンッ」の音速は届くまでに差があります。20キロだと50秒くらい。熱線については、「呉ではほっぺたがちょっと温かくなった」という手記があります。かえって生々しいリアリティを感じませんか。爆心地だけではなく、その外側にも少しずつ影響が減衰しながらも広がって行ったんですね。
なおかつ、キノコ雲が立ち上がります。あれはどのくらいの高さだったと思いますか? 計った人がいないのでいろいろな説があったんですが、最近では高度1万6000メートル、16キロ付近まで上がったのではないかと言われています。その頂点と20キロ地点の呉を直線で結んで三角関数で計ると40度くらいの角度になります。この角度でキノコ雲を見上げていた人たちがいたわけです。つまり広島市街だけでキノコ雲が見えていたわけではないんです。
呉からは大量の消防車が広島に救援に駆けつけました。呉空襲の時の恩返しの意図もあったでしょう。
でも、広島市内には既に大量の放射性降下物が拡散していて、それを体内に吸い込んで内部被ばくしてしまった人がたくさん出たんですね。「入市被ばく」という言葉があるわけです。この物語の登場人物の何人かも被ばくして放射線被害に苦しんだりしています。
原作では原爆投下の日の連載の頭に「20年8月」と記されているわけですけれど、映画では出していません。それまではほぼ原作通りにカウントダウンを出していますが、映画ではすずさんが空から機銃掃射を受けた話の後、「その9日後」としました。
8月6日の朝を生きていた人たちにとっては、その日は特別な日ではなかったはずだからです。
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