「欅坂46」が、在日韓国人・朝鮮人について歌った場合を想定する
2017年08月18日
それ自体、非常に重要である。だが私はここで、「ヘイトスピーチ」をより広い意味で用いる。
ヘイトスピーチとは、「人種、出身国、民族、宗教、性的指向、性別、障害など自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて個人または集団を攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動」のことである。これは、「ウィキペディア」の記述である。この規定は法概念の限界を超えて、より広範に問題を扱うことを可能にしている。
本稿で私が着目するのは、「性別」である。在日韓国人・朝鮮人に対するのと同様に、女性に対して「攻撃、脅迫、侮辱」を加える発言・言動が確かにある。性暴力そのものがこれだとも言えるが(これは本来「ヘイト・クライム」と言うべきだが、ここでは大まかに論ずる)、性暴力をのぞけば、何より問われるのはポルノであろう。
ポルノは、「公然とその生命、身体、自由……に危害を加える旨」を、直接に女性に向かって告知する言動ではないとしても、そうした言動がめざす上記の危害を女性に加える様を男性の前に描いて見せ――日本で少なくないレイプAVでは、「女を犯せ!」というメッセージが視聴男性をくり返し性犯罪へと扇動する――、かつそれを合理化しさえする点で、当の直接的な言動と本質的に異ならない。それは、より広い意味でヘイトスピーチと見なしうる。
ユダヤ人迫害との関連で記すと分かりやすいかもしれない。1930年代~40年代前半、ナチが支配したドイツでは、ユダヤ人に対する、実行行動まで伴う、直接的かつ激烈なヘイトスピーチが支配した。一方、ユダヤ人に対するその種の発言・言動を合理化すべく、たくさんの映像が作られた。悪名高い「作品」の一つ『ユダヤ人ジュース』では、ユダヤ人があたかもアーリア人の食料を奪うネズミであるかのように描かれている。そしてそれ自体が、ユダヤ人に対する「攻撃、脅迫、侮辱」となる間接的なヘイトスピーチと言わなければならない。
秋元康氏「月曜日の朝、スカートを切られた」批判――「表現の自由絶対主義」の陥穽
さて、問題となった秋元康氏の歌詞は、上記のポルノや『ユダヤ人ジュース』と本質において違いはない。女性を固定的な役割観においこもうとする秋元氏の従来の姿勢も問われるが、それと同時に、今回の歌詞が性被害の話題を用い、かつそれを気楽にも「女の一生」の一部のごとく語ってしまえる、したがって事実上それを従容として受け入れよと論じてしまえる姿勢は、「自分から主体的に変えることが困難な事項」(ウィキペディア)に関して、女性という「集団を攻撃、強迫、侮辱」することに他ならない。
そしてこの「攻撃、脅迫、侮辱」の合理化は、詞では互いに関連する2点によってなされている。この2点の合理化が、女性たちの不安をあおった元凶である。
その後の歌詞の展開(2枚1組のアルバム全体)において、スカート切り裂きがどのように位置づけされようと(後述)、被害女性は黙って被害に耐え、「悲鳴なんか上げない」とうそぶいている。実際の痴漢被害では、むしろ悲鳴を上げることさえできないことも多いが(杉田編『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』青弓社、24頁)、「悲鳴なんか上げない」というのは、これとは異なる自覚的な行為であろう。被害を受けた女子高生は、強いられた被害を、この言葉によって受け入れているように見える。
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